見出し画像

文章執筆の自己矛盾

私の文章は、壊れた印刷機のように溢れ出る感情を取り止めもなく垂れ流しているだけなので、執筆というほど素晴らしいことはしていないのだが、他に良さげな言葉もないので、そういうことにしておこう。

今日は久々、下書きを加筆したり新規記事を作ったりを繰り返している。何を隠そう、今日の分の記事がなかなか完成しないのである。

なぜ書き上げられないのか。

書きたいことと、画面に出てくる文章が一致しないのである。

もっと明るい記事を書きたい!もっと読んでて元気になるような、あるいはほんわかするような記事を書きたい!と思いつつ、例によって例の如く、自分の中のバケモノが出てくる。ちょっと待ってて、君はまた今度!と何回も押し戻したのに。
自分の中の仏はというと、瞑想したっきり出てこない。だめだこりゃ状態である。

なので、今回は書きたいけど書けないの話をします。

昔聞いてた歌手やバンドの曲が、最近サブスク解禁した。嬉しい。旧友との再会みたいで、あるいは期待していなかったクリスマスの朝プレゼントがあるのに気付いて飛び起きたときみたいで。

早速脱線したので戻すと、noteの雰囲気って、人のそれそのものだと思う。むしろ、”読める”分見た目わかりやすい。(単純明快に理解できるという意味ではなく、静かなタイプの人でもその人の考えていることを覗きやすいということ)

文章って一つひとつ表情が、いや”声”があると思う。私は小さい頃から本が読むのが好きなのだが、黙読の楽しいところは、自分の脳内では映画の吹き替えみたいに登場人物一人ひとりに固有の”声”を与えられることだ。そういうのが、noteにもある。優しいお姉さんみたいな声、頭脳派のお兄さんの声、明るく女の子の声、酸いも甘いも噛み分けたおじいさんの声。いろいろある。”声”が聞こえてきたときには自然と、”スキ”をしている。

記事が少しずつ増えていくと、自分の中にもいろいろな”声”があって、それぞれに人格があるのを感じる。もちろん、それを全部合わせたのが私なのだとも思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?