ありたい世界を「そうぞう」する

ここ数日、一地球市民或いは一市民として言葉にできない憤りを感じている。
暴力による解決・核兵器による脅しは許されないと議論されている最中に、改憲や「核共有」を進めようとする動きがある。今このタイミングで、このタイミングでなくても、武力・核戦力を強化しよう、持とうとする議論はとても受け入れられない。いったいどのような世界であってほしいのだろうか。殺される恐怖を抱きあうような世界はありたい世界なのだろうか。私は違うと思う。

そもそも国を守るだなんだと騒ぎ立てているが、かつての侵略を「自衛のためだった」と正当化し、植民地の支配一つ顧みることもできない状態でそんな議論が成立するのだろうか。歴史はそれらしい「大義」でふるう暴力こそ破滅の道であることを示しているのではないか。大きく見えるものに掬い取られてしまうことが、いかなる結末を迎えるのかを人文の知は示しているはずだ。そして、ありたい世界の「そうぞう」はそこから始まるのではないか。

国家以前にいる個人一人一人がより多く幸せに暮らせること、それがありたい世界だと思う。どのような議論においても、外れないようにしたい。


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