競技者数の話

今年も時期がやってくる。日本カーリング協会の競技者登録は各都道府県協会を経由して行うことになっている。不思議なことに、登録の「有効期間」についてはっきりとした定めはない。毎年6月くらいに案内が来て、8月頭くらいを期限に手続きしてくれと言われる。

私が把握している北海道カーリング協会分の競技登録者数の推移(下表)によれば、1992-93シーズン(平成4年度)が過去最多であり、以降この30年間、単年度若干の増加をすることはあっても基本、右肩下がりを続け現在に至っている。

1998年長野での冬季五輪開催も、「シムソンズ」のソルトレイクも、「ご存知マリリン」のトリノも、「チーム青森」のバンクーバも、「道銀」ソチも、「そだねー」平昌の銅メダルも、北京での2大会連続メダルも競技登録者数を増加させる起爆剤にはならなかった。

中央団体への競技登録者数は、その競技の持つ「力」を表すひとつの要素に過ぎない。カーリングをやめてしまった古い競技仲間もたくさんいるが、競技会には出ないが、地元のクラブでカーリングを楽しんでいるカーラーもたくさんいる。

マスメディアへの露出、NHKなどでの放送実績、Youtubeでの動画配信実績、SNSでの反応数などを見るとカーリングの認知度やカーリング選手・チームに関心を持つ人々が増えている感覚はある。

データの現物はなかなか見せてもらえないのだが(頼めば見せてもらえると思いますが)「見る」競技として、一定の地位を築きつつある、と関係者は見ているのではないか。

しかし、プレーする者は減り続けている。

30年前と現在とでは「競技登録者」の位置付けや競技登録にかかる費用に変化がある。直近で言えば新型コロナウイルスのパンデミックの影響は非常に大きかった。だから単純比較はできないのだが、これらの数字がある面における「事実」を反映していることは間違いない。

30年前、北海道には専用の屋内施設は常呂にしかなかった。稚内では1983年から旧米軍施設を再利用した屋内施設が供用されていたが冷凍機がなかったし(信じられないかもしれないが、厳寒期に窓を開け外部の冷気を導入し結氷させていた)、1990年オープンの池田の施設は冷凍機はあったが屋根がなかった。

多くのカーラーは屋外で、ビニールハウスで、そしてアイスアリーナ(いわゆる「ホッケー場」)で、カーリングを(「カーリングのような競技」にならざるを得ない場合もしばしばあったが)プレーしていた。一年のうち、プレーできるのは1か月かよくて2か月程度の冬のレクレーションだった。

専用施設さえあれば、と、多くのカーラーは願っていた。それはこの30年でめざましい前進を得た。
今、北海道には通年利用可能な専用施設が5か所(22シート)あり、冬季利用可能な専用施設が3か所(11シート)ある。

そして競技登録者数は30年前の半分以下だ。これは一体どういうことか。

この事実は、多くの示唆や教訓を与えてくれる。登録者数の推移(男女比や年齢構成の変化といったデータと併せて)は重要なデータで、関係者が学び生かすべき要素は多いと思う。内容についていずれ展開しようと思うのだが今日はこのへんで。

(2023年6月14日に投稿)

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