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#156 公益性ラヂオ

 前回(#141)の続き。といっても誰も覚えちゃいめえ。本人も何をするんだったかわからなくなっている。活動30周年だがどうするよ、という話であり、読み返したがそれ以上のことは書いていない。安心した!

なんとなく書きあぐねている

のは、何を書いても(自分はこんな体験をしている、という)優越性について語ることになり、なにか人様の時間をいただいてまでのお目汚し、という気持ちになるからでして、こんなんぶっちゃけ面白いですか。いや、そこをどうにかするのがお前の仕事だろう、と云われますと、イヤハヤ、ドーモ。仰る通り。

配信者全盛期なのでラヂオでもやろうかと思ったが止している、という話をする。

 繰り返すが、「何を書いても(自分はこんな体験をしている、という)優越性について語ることになる」という状態から抜け出すにはどうしたらいいか、ということを考えたときにキーになるのは「公益性」だろうというのはわりと多くの人がたどり着く答えでございましょう。公益性。おおむね大体、役に立つコンテンツ。誰の? なんの?
 ということで参考にしようと思ったのが「ポルカラジオカ」であり「隠居夜咄」であるのですが、ポルカの話を聞きたい人であったり、近代文学の話を聞きたい(あたしのような多岐祐介ファンであり)人であったり、そうした需要をちゃんと叶えるコンテンツ。しかも一回10分くらいで、なにか別の作業をしながらでも"消費"できる。(そう、コンテンツは消費される。知ってる)そういうのができたらいいな、とは思ったが、ぢゃあ自分がひねり出せる「公益性」ってなんだろう、と公益性について調べたり考えたりしているうちに、なにもねぇな、という結論に至ってしまった。やっていることがこのnoteと変わらなくなりゃしないか?
 自分で自分自身のことが解っていないだけかもしれない。なんでもいいから思いついたことだけしていればそこに価値が生まれる、とは流石に思っていない。思えない(あ、この記事もその価値のなさに含まれます)。ここまで読んでくれたみなさんはありがとうね。別に卑屈になりたいわけではないんですが、どうも自分が発信するものとしてしっこりこない。人の評価なんか気にするな、というほど熱を上げているわけでもない、かといって我慢して体裁を整えてまで公に益するものでもない。タイトルだけでも「公益性ラヂオ」にしたらいいのではないか、なんて考えてしまって、そこから先が続かなくなってしまった。

そろそろオチに行くか

 30周年だからなんかしようか、という発想そのものが不健全だったのかもしれない。が、自分が作るものを通じてどう社会に貢献していうか、ということはもっと考えてもいいのかもしれない。
――が、今更考えますか、そうまでして栄誉めいたものがほしいですか。ほしいよ、ほしいに決まってるだろう、これだけ長いことやってきたんだぜ。ぢゃあ少しは無理してでもかっちりしたものを作ってやったらいいぢゃあありませんか。そんなかっちりしたものがあったらここまで悩んでいない……と、この独り相撲、どうですか。多分音声作品にしてもずーっとこんな感じのものを作ってしまうんだろうなぁ。
 という未来が見えてしまった時点でおしめえだァ――――

(ここまで、本当に誰か見てる? ホント?)

みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。