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チャットモンチー考



かつてチャットモンチーというバンドがあった。

彼女たちは日本のミュージックシーンで何者だったのか。

春眠に暁を覚えず、寝ぼけ眼でちゃんと定義してみようと思う。


女性3人組。※のちに正規メンバーとサポートメンバー形式となる

これはどうしても「ガールズバンド」と呼ばれてしまう。

そしてこの表現は、日本のロックシーンで余りありがたくない
呼ばれ方と感じている音楽関係者も少なくないのではないだろうか。


ガールズバンドだから____だ。

という、発言が少なくはない。
でも、本当のところは、そういう議論が無意味なのはみんな
知っているはずなのに、どうしてもそういう議論が起こる。

それは、ガールズバンドが「テクニック面」で非力である
確率が高かったからだ。

それは、日本のプロアマ問わず、正当な確率論だけで言えば
確かに否定ができないであろう。

男女の身体的能力値というよりも、楽器を演奏を含めた音楽
経験者で、その経験年数の統計をとった場合、どうしても
女性は継続年数が短いことが上げられる。

それは、エレキギター、エレキベース、ドラムを中心とした
ロックバンドの構成に、女性が参画する「文化」が成熟して
いるとはいえないからだ。

と、実はこれ以上、女性のバンドへの関わりは書きたくない。
というのも、チャットモンチーはテクニック面では、男女の
差を感じさせるような非力さはないからである。

今回は、チャットモンチーというバンドに限った考察をして
いこう。


まずはベース福岡晃子。
スタジオミュージシャンや、サポートベーシストといわれる
職業ベーシストを外し、ロックバンドの主要メンバーとして
活動する女性ベーシストの中で、彼女は日本のミュージック
シーンの女性10傑に入ると思って間違いはない。

そして、アルバム「生命力」以降のベースプレイは、デビュー
当初のそれに比べ格段に進化しており、3ピースバンドでの
グルーブを表出化している最大の功労者と言える。

ツーフィンガー奏法は特に安定度が高く、3ピースとしての
音の厚みを、まさに底から支えているといえる。

ピック奏法に関しては、ライブにおいてはやや煩雑な面も
なくはないので、課題とすればそこかもしれない。
ただし、それはライブのテンションでの演奏ともいえるので
個性と表現する価値の可能性も否定はできない。


続いて、ドラム高橋久美子。
彼女のドラミングは、本人は不服かもしれないがまるで
「母親」のようである。

チャットモンチーの持つサウンドの方向性を理解したうえで、
楽曲ごとに、そのニュアンスを繊細かつ暖かく表現している
ドラムである。
これは想像だが、橋本から上げられてきたデモテープからの
理解度が図抜けて早く、曲そのものが持つ個性を即座に
見抜いてしまうのではないかと思われる。

また、チャットモンチーが好む変拍子にも、彼女のドラムの
個性と独自性が表現されており、他のメンバーもそれを
心地よく気に入っているのではないか。

必要なショットを必要なだけ、そう、チャットモンチーが
必要としているだけの音を鳴らす母親のようなドラムだ。


最後のギター&ボーカルの橋本絵莉子。
彼女は「3ピース」という表現を、彼女なりの哲学によって
邁進していると考えられる。
3ピースによるギターは、リードギターでもリズムギターでもない。

たまたま今はギターを担いでいるが、彼女であれば、
別の楽器を持ったとしても、自分の役割の哲学の構築
を行った後、演奏を固めてゆくと思われる。


3ピースでドラムとベースがおり、自分はギターを担ぎ、歌う。
足し算引き算的に考えると、メロディとハーモニーの中心は
自分が担うこととなる。

そして、自らつけたメロディを、変えようもない自分の声で歌い
その上で、ギターという相棒でどのようなハーモニーとコード感を
演出するか。

これは感覚的であれ、論理的であれ、計算しつくして設計せ
ねば、成立さえしないことを本能的に理解している。

私はこの感覚を以って「天才」と言わしめるほかの表現を知らない。


彼女は速弾きもテクニカルなリフフレーズもチャットモンチーという
共同作業の中では必要性を感じていない。

ときどき、妙ちくりんなギターソロを作るが、私が妙ちくりんと表現
するのは、他のギタリストであれば作りようもないギターソロで、
こそばゆいのに、心地いい、他には類をみないギターソロであるからだ。


メジャーレーベルからデビューしているプロバンドの演奏家だったら、
たとえ自分バンドの楽曲には使わなくても、テクニカルなフレーズを
これまでのキャリアの中で会得してきた筈だ。特に男性は、それが
「男の生き様」的に中ニ病的な勘違い含めて会得してきたものが多い。


チャットモンチーは違う。

彼女達は、彼女達がアウトプットしたい表現に必要な技術を
優先的に会得してきた。

ギターなら速弾きやタッピング、ベースならスラップや低いストラップ、
ドラムならツーバス連打や多数のタム配置。

男の子なら「男の生き様」と勘違いするようなものに対して、
運良く女性だったからこそ、冷静に会得する技術の取捨選択を
してこれた。

そして、プロの演奏家になってから、表現のための技術の修練や
各楽器の演奏家としてのプレイスタイルの幅の拡張に取り組む
ことができている。


私はこのバンドに出会うことで、あるひとつの「真理」を言葉にして
表現することができるようになった。


「表現したいことを表現できること、それが技術だ。」


チャットモンチーはロックバンドとして必要な技術を持っている。
しかも、その技術は日々進歩している。

それにも増して、3ピースバンド、いや3人の人間が、音楽という
表現をするために「チャットモンチー」というひとつの生き物を生み、
それに3人が融合・同化を同意した。そして音楽という目的のため
その生き物の中で各個人の人格・感覚・好みをせめぎあわせつつ
ドラムとベースとギターと歌メロとコーラスで、常に何かをアウトプット
することを模索し、機会をうかがっている。

それがチャットモンチーという存在だ。

日本のミュージックシーンの中でこれほどの自我同位体へと
持ち込んだロックバンドは例がない。
当然、男女を問わず、卑近する例がないのだ。


音楽は、消費する時代へと完全に移行した。
しかし彼女達は、そんなことすら気にしていないと思う。

なぜなら、チャットモンチーという生き物がアウトプットした
楽曲は、消費するしないの概念では捉えられないからだ。

もちろん、音楽出版社は商品として扱う。
消費者は、消費するのかもしれない。

ただ、作り手が「消費」を覚悟して作っている音楽と、
そういう概念を持たずに作っている音楽は、存在する価値が違う。

チャットモンチーというバンドの正当に評価する音楽界であり、
音楽ビジネスであって欲しいと思う。

でも思うんです。
チャットモンチーは、音楽ビジネスがどちらに転ぼうとも、彼女達は
音楽を制作し続けるだろう。
ひとつの生き物の命を、軽んじるような女性達ではないからだ。

そういう人達が生きる、同じ時代に生まれて幸せだとも思う。


私はかつて、チャットモンチーになりたいと思った。
それは、彼女達のインディーズ時代の自主制作版CDの存在
を知る前のことだ。

チャットモンチーという、生命体になることで、私はこの人達の
音楽と同化し、その行く末を見届けられると思ったからだ。
当然、それは私の中の夢想である。
人にいうと気持ち悪るがられるので、言葉にすることはない。

しかし彼女達は、自主制作CDに「チャットモンチーになりたい」
というタイトルを付けていたことを、後に知った。

私の夢想とリンクしているはずも無いが、していたらちょっと嬉しいと
思った。


3人ともチャーミングな女性なので、ちょっと乱暴なんですが、
彼女達を見ると、いつも同じ言葉が頭に浮かびます。


それは、戦友。


だから、あっこちゃんに「G戦場ヘブンズドア」を託してみました。

チャットモンチーというバンドは、日本のミュージックシーンで
何者なのか。


チャットモンチーは、日本のミュージックシーンが誠実であるか
どうかを図る指針である。


きっと明日も、わりと良い朝がくるでしょう。

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