「好き嫌いを言ってはいけない?」

2000年~2005年ころのインターネット上では
(2チャンネルなど)
「自分の好き嫌いなど、書いてもしょうがないでしょ」
というようなことがあたかも、正しいことのように言われていました。

日本とは元来そういう社会です。
「個人の意見より正しいことが大切だ」という。

しかし人間の「意見」というものは、深く観察すれば、
政治的な発言や、科学的な発言や、つまり全ての発言は、
その人の好き嫌いが含まれています。

(=意見とは、好き嫌いが土台になっているのです。
それは、人間が、感覚によってしか認識を得ることが出来ないからです)

医師の安楽死反対の意見さえ、その人の思想が含まれている。
つまり、「好き嫌いを世間に公表してもしょうがないだろ!」
というのが正しいなら、
人間世界は沈黙の世界になるしかありません。

だから、好き嫌いを言うことは、
科学的意見でも政治社会的意見でも、
(コロナ問題や、原発問題でも)
「自分が感じた意見を言うことが正しい」=重要なことなのです。

医師(科学者)が安楽死は正しくない、と言っても、
それは違う、と言うことは間違いではないし、
科学者が、原発は推進することが科学的に正しいと言っても、
市民が反対することも正しいし、
厚生省に癒着した科学者がウイズコロナが正しいと言っても、
それは正しくない、と言うことも同様に正しいのです。

それでは何を選択することが人間社会にとって幸せかといえば、
国民全体が参加して多数決に依ることが最も幸せな選択になる、
ということです。
「正しい」よりも「幸せ」になること。
「最大多数の最大幸福」というベンサムは民主主義の理念を語っています。

日本ではこれを功利主義といって悪口に訳します。
日本にとって、国民多数決で社会が動く事は警戒されています。
官僚支配が壊れるからです。

文科省教育支配によって一律化した知識が日本人には与えられている。

「ベンサム=功利主義」と覚える人は、
ステレオタイプにすぎません。

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