ガダマーが書いていること

「科学の時代における理性」ガダマー著
<訳者あとがき、座小田豊(ざこたゆたか)>

本書は6つの論文集の体裁をとっているとはいえ、
1つの主題が貫かれている。
簡単に言えば、科学の時代に於いて理性(=考える)の学としての哲学の
果たしうる役割は何か。
もとよりこの問は、ガダマー特有の問いではない。

人々の共通の問いといってよいだろう。
「学問」が「哲学→科学」へと変換した近代の科学時代の
諸問題を哲学の課題として、・・・

科学自体は存在了解・世界理解の「一つのあり方」つまり、
全体的な理解を目指す学問の単に一つの側面にすぎない。
してみれば、世界の、そして自己の全体的な理解を目指す人間の
理性が、今日、改めて問われなければならない。

我々人間自身の自己了解(人間自身が納得できるものとして)ができるものとして、


「科学の時代における理性」ガダマー著
<第五章 哲学に向かう人間の自然な性向について1971年、講演>

知が神々のために取っておかれるのに対して、
哲学的な思索は常に、充たされないものではあるとしても、
(プラトン以降の哲学は)真理に向かう絶えざる努力のことを意味している。

「美しい」は、必要と有用を越えており、そして、気に入ったという理由だけで
それ自身、の為に、求められるものの領域、のことを意味している。
しかし、この語句は明らかに、一切を凌駕する知、もしくは能力を持つ人々、
の非凡さを言い表す際に用いられた「賢明な」という語と結びついている。
とはいえ、「賢明な」という語の内には、philosophiaという
後のプラトン的な概念を準備する意味が、すでに刻印されていたのである。
例えば、ヘラクレイトスは「賢明」という、この語を、
全てを越え、またその後ろ盾になっている物として用いている。
賢明とは即ち真なるもの、

ヘラクレイトスの知は、あらゆる博識ぶった知に対置されるが、
すなわち、
「一切を結合し一切をコミュニケーション可能なまでに明瞭なものへと
高める理性」の要求のもとで行われる。

ソクラテスは、自然を探求する「賢い人々」の知には何も期待せず、
代わりに、自分の魂について配慮するように促し、
善き生活への問いを問うていた一人の素朴なアテナイ市民である。

ソクラテスは倦まず弛まず対話を続け「善」を尋ね求めることによって
哲学を天界から、すなわち、世界の構造や自然の出来事の探求から、
人間のもとに引き降ろしたのであった。
事実、彼は、「哲学者とは自己認識にかかわり、不幸や不法や苦悩といった
人生の辛い経験を、それどころか、死の苦悩さえも超越するために
自分の思惟を役立てている人のことだ」と考える全ての人にとっての
原像、模範となったのである。

一性(客観)と数多性(主観)が一つにであるということは、
プラトンにとって、天界の事物も、人間的な事物も、世界の構造も
国家の体制も、魂の体制も、思想を形成する談論も含めて
全ての秩序の究極の秘密であったからである。

哲学の端緒は、
=知への熱望の端緒は「驚き」である。
あるものが、通常の期待に反するが故に驚きが現れる。

一般知、専門知、普遍的な知も、これら全て、善の知を必要とするのである。

近代の科学は観察可能なものを数量化する数学の方法に委ねることによって
科学的認識に向かって邁進したのであった。
ところが、形而上学によって王位を授けられていた学問(=哲学)が提供していた
もの、つまり、世界解明に統一的な決着を与えていた哲学の役割を、
近代科学は示すことが出来なかった。

各人が自分自身の内に所有していると考えている自由、
各人が空間や時間や永遠性についてまでも考えることを許したりするような
自由は、
他のものに操られている単なる仮象や夢でしかない、ということなのだろうか。

(人間が行っている科学が)自然過程を次第に制御するようになっているといっても、
それは今もって常に自然の小さな領域に関わっているだけであって、

科学の成果が好まれている原因は、
=科学及び専門家の権威とは、
行為者の担っている責任を、免除するもののことを意味している。

それらの中には期待の地平や、因襲や、信仰についての考え方や、
伝統を規定している規範概念や、人間の実践的決断を昔から引き受け
規定しているすべてのものが含まれる。

個々人の生活に関しても社会の生活に関しても各々の人格的かつ
政治的決断が客観的に決定される、すなわち、
我々によってではなく、
科学によって決定される、というまでに完全に科学化することなど
考えうるのだろうか、

こうして、人間を再び自己了解(人間側の感覚的納得)へ向かわせるという課題が
緊急さを増して立てられるのである。

「汝自身を知れ」というデルポイの要求は「汝は人間であって、
神ではない事を知れ」という意味であった。

この要求は支配と制御の一切の幻想に対して警告を発しているからである。

自己認識だけが自由を、

すなわち、支配者によって脅かされているだけではなく、

支配と依存とによって脅かされている自由を、救済することが、(必要)


以上は全て、わかりやすい部分を抜粋した引用です。
以下、有料部分は私のガダマー解説となっていますが、
引用部分だけでも、ガダマーの言っている事は解るでしょう。

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