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食のレガーレ

飲食関係ではない、只の料理好きの戯言ではありますが、どこにも記録を残していない思い出がありますので、この機会を利用させて頂きます。

私が子供の頃、といっても小学生高学年までではありますが、母は函館という北海道の街で、食堂を営んでおりました。所謂「街中華」、塩ラーメン290円という、当時としても良心的な価格設定で、それなりに人気のお店でした。父は会社勤めをしておりましたので、家業というワケではなく、祖母、もっと言えば曾祖母が始めた店を、引き継いだのでした。元々は、函館に来る米軍の酔客を相手に始めた店だったようで、なんともたくましさを感じますが、それは直接今回は関係しないお話です。

さて、当然のことながら、幼少の私は、店の手伝いをさせられます。朝5時からの餃子や唐揚げの仕込み、掃き出しから雑巾がけなど、一通りの仕事を済ませてから、登校していました。小学三年生です。当然登校はギリギリになりがちで、遅刻も少なくありませんでした。カラカイ半分に先生が付けたあだ名が「まんぷく」。そう、店の名前は「まんぷく食堂」といいました。今の時代にこんなあだ名を先生が付けたら、大問題になるかもしれませんね。当時は色々ユルイ時代だったな、と、思い出すと少々切なくなります。

その「まんぷく食堂」のすぐ隣に、神社がありました。「なんとか八幡宮」。よくある名前の神社で、近所の人々は「はちまんさま」「はちまん公園」などと呼び、比較的大きな、地元に愛されている場所でした。8月になると「夏祭り」が催され、沢山の屋台が出ていました。今ではすっかり見なくなった「見世物小屋」なども出ていましたので、思い返しても、大きな場所の大きなお祭りだったのだな、と思います。

屋台といえば、的(テキ)屋さん。りんご飴や綿飴を売ったり、金魚すくいで悪戯っ子を怒鳴ったり、カキ氷をひっくり返して泣いている子供に、おまけだよ!といって新品を出したり。色々な人が大勢、夏祭りの時期に集まっていました。毎年賑やかなこのお祭りが、三日間続いていました。

子供たちにとっては、楽しくて仕方がありませんよね。お小遣いを貰い、友達と待ち合わせて、色とりどりに光る参道を、楽しく騒ぎながら歩いていたと思います。「思います」というのは…私は、家が食堂なので、この時期は稼ぎドキです。当然、朝の仕込みだけでは済まされず、昼も夜も手伝いに駆り出されます。お祭りに行ってはダメ、とは言われていませんでしたが、行きたいなどと言える空気ではありませんでしたし、実は私も、然程行きたいとは思っていませんでした。なぜって、色んなお客さんが来店して、出されたメシをガツガツと口に放り込んで、サッと帰る姿を見ている方が楽しかったから。店は大忙しで大変だったけれど、的屋さんたちも稼ぎドキ。食事の時間を悠長に取っている暇はなく、ものすごいスピードで食べて帰るのです。料理を作る側も、出されて食べる側も、戦争状態。そんな空気が大好きでした。

さらに、出前の注文も来ます。当時は携帯電話なんてありませんから、近くの公衆電話や、的屋さんのご家族の誰かが、直接注文をしに来たりもしていました。「真ん中の鳥居から4軒目のハッカパイプの店だけど、ラーメン3つとチャーハン頼めるかい?」といった具合の、怒号にも似たオーダーが、四六時中入っていました。

当時は当店にもアルバイトのお姉さんが居て、出前は一人で対応していました。出前に行っている間のホール担当は私。ホールなんて言っても、カウンター7席、テーブル4席程度の小さな空間ですが、秒刻みで出来上がる、しかも子供の腕には結構重たいラーメンどんぶりや定食の盆などを客席に持っていくのは、まぁまぁ大変な仕事でした。

ある年の、祭り初日。アルバイトのお姉さんが、病欠しました。人手が一番必要な日に、それはとても困るけれど、病気なら仕方がない。軽い風邪なので一日休めば大丈夫、ということで、その日は私と、4つ下の幼い妹も動員して、ホール担当をしていました。小さな、そう、幼稚園児の女の子が、一生懸命に水を運んだり、テーブルを拭いたりしている姿を、的屋のお兄さんたちは、目を細めて見ていましたよ。わざわざ綿飴を持って来てくれる人もいたりして、あれはあれで、店の宣伝になっていたのではないかと思います。が、私はというと「お兄ちゃんは、妹に負けないように頑張らないとな!」などと無責任なことを言われたりして、外向きには「はい!」などと笑顔で応えつつ、内心あまり面白くありませんでしたね。私なんか年中休みなしに手伝っているわけですから。

その日の夜。一件の出前注文が入りました。スーパーボールすくいの店に、味噌ラーメンを2つ。19時を過ぎていたと思いますが、店はまだまだ混雑している時間。母は、意を決したように、私に出前を指示しました。

出前は、初めてではありませんでした。明るい時間の、しかもご近所さんへは、何度か経験がありました。しかし、いまはトワイライト。一番見えづらい時間帯に、しかも夏祭りの屋台裏への配達。あまり知られていないかもしれませんが、表からはとても綺麗で賑やかな屋台の列は、一歩裏側に回ると、それはそれは複雑な迷路状態。なんのお店なのかも判りませんし、電源コードやごみ箱、的屋さんの荷物や商品在庫などが散乱している中を、重たいオカモチを持って移動しなければならないという、格闘家の修行か!ショウリンジ・モクジンケンか!と思うような仕事。関係ないけど、当時ジャッキー・チェンは大人気でしたね。

じゃぁ表側、参道を歩けば良い…なんて、絶対思えないのです。表側は一般客でごった返しています。万が一人にぶつかって、ひっくり返ってラーメンのスープでも掛かったりしたら、それこそ大事件。それを解っているからこそ、母は一拍置いて、何かを覚悟して、私に指示を出したのでした。

オーダーを受けて5分後、ラーメンどんぶりにラップをかけ、オカモチの上下段に一つずつ味噌ラーメンを収納した私は、「行ってきます!」と大きな声で叫びつつ、不安と焦燥とラーメンを抱えながら、神社の鳥居の脇から、屋台裏に入り、そして、

見事に迷いました。スーパーボールすくい、確か参道の真ん中くらい、と聞いたけど、全然見つからない。表側に出て確認しようにも、屋台の列で隙間がない。時間は過ぎる、ラーメンは伸びる、重さで腕は痺れてくる。半べそをかきながら、およそ15分ほど掛けて漸く「こらこら!もう破れてるじゃないか!駄目だぞズルしちゃ!」という怒鳴り声で、そこが目的地だということに気が付きました。

「おう、遅かったな!混んでるんだろうな!」と、ラーメンを受け取った的屋のおじさんは、すみません、味噌ラーメン2つ、お待たせしました…と、半泣きしながら、伸び切ったラーメンを持ってきた小学生を見て、何かを諦めたのでしょう。あの時の複雑なおじさんの顔は、今でも思い…出せませんけど、申し訳なくって、とても心が痛かったのを覚えています。カラになったオカモチを抱えて、戻ろうと2,3歩歩いたときに、背後から「あ~ぁ、すっかり冷めちまってるなぁ」という声が響いていました。

戻ってきた私を見た母が、「随分時間が掛ったね!迷ったのかい?!」と声を掛けてきましたが、迷って冷めたラーメンを配達してきた、とはどうしても言えず「大丈夫」とだけ答えて、そのまま店の手伝いを続けていました。

空いたどんぶりの回収は、翌朝元気に出勤してきた、アルバイトのお姉さんが対応していました。「あの…なにか言っていませんでしたか?」と、戻ってきたお姉さんに恐る恐る聞いてみましたが、特に何も、屋台の人居なかったし、などと、少し腹が立つような、無責任な答えが返ってきたのみでした。

それから、夏祭りが終わるまでの二日間は、生きた心地がしませんでした。幸い、それ以降は、出前を指示されることはありませんでしたが、あのスーパーボールすくいのおじさんが、クレームに来るのではないかと思い、そうなったら、店の評判を落としてしまう、母に迷惑を掛けてしまう…と、ヒヤヒヤしながら店の手伝いを続けていました。

そして、最終日。お祭りは17時には終わり、屋台の解体が始まって、楽しかった夏の宴も御終い、周りの皆が、切ない気持ちで一杯になっているころ、私は一人、安堵に包まれて、何かから解放されたような、試験が終わって、勉強しろ勉強しろの空気が一旦収まったような、そんな晴れやかな気分になっていたのでした…が、事態は収まっていなかったのでした。

夜、20時頃です。もうそろそろ、的屋のお客さんは来なくなり、平穏が戻った店内に、声が響きました。

「まだ大丈夫かい!?」

スーパーボールすくいのおじさん、御一行様。屋台の片付けが終わって、ハラゴシラエに来た、どうしてもラーメンが食べたい、と。

「スーパーボールすくいのおじさん」は長いので、以下「超玉さん」にします。

母は、まだ大丈夫だよ!何がいい?と応えていましたが、私は、超玉さんに見つからないよう、そーっと奥に引っ込もうとしていました。

その時ですよ。信じられないセリフが、超玉さんから発せられました。空気なんて無くなれば良いのに。音なんて伝わらなければいいのに。今ここで、スープの寸胴、ひっくり返してやろうか。

「味噌ラーメン。そこの、坊やに作ってほしいんだけど、いいかい?」

「はい?何言ってるのさ、子供の料理なんか、お客様に出せるわけないよ!」と、当然の回答が母から出ていましたが、超玉さんは、いいじゃないか、俺が食いたいんだからさ、おかみさん、唐揚げ作ってよ、あとビールね!と、ニヤニヤしながら、漫画を読み始めていました。

困った母は、あんた、一体何したのさ!と怒鳴りつつ、私に味噌ラーメンの調理を指示したのでした。

そんなわけないだろう、と、思うかもしれません。小学三年生ですよ。保健所にばれたらドウナルンダロウとか、そもそも作れないだろうとか、そう考えるのが普通なのですが、そこは私の母。というか、曾祖母譲りのナイスガイ(?)、しれっと「いつも見てるんだから、作り方はわかるだろ?お客様が言ってるんだから、作ってみなよ」。

★はこだて味噌ラーメンの作り方~もやしとひき肉をごま油で…以下省略。

北海道ラーメンの、それも味噌だけは、重たい中華鍋を振り回さないと出来ないんです。やたらと調味料も入るんです。ニンニクも。チャーシューではなく、挽肉なんです。

どうにか作り終え、母がスープの味見をしようとしたタイミングで。

「早く食いたいからさ、そのまま持って来てよ!冷めちゃっちゃナンニモならねぇよ!」

超玉さん、漫画読んでたんじゃないの?何その絶妙なタイミング。仕方なく、私がそのままカウンターの外に回って、超玉さんに味噌ラーメンを運びました。

蓮華を掴み、油で熱いスープをスッと掬い、フーッフーッと冷ましながら、「ずずっ」と啜る音。ニンニクの香りが強いモヤシと挽肉と一緒に、「ずずずっ」と口の奥に吸い込まれる、少し太い麺。

一旦カウンターに戻って、母と共にハラハラしながら、超玉さんの食べる姿を凝視していた私は、不謹慎にも急に襲ってきた空腹感と、超玉さんの、この後の言動を予想しながら、もやもやしたお腹をさすっていました。

スープを飲み干し、一つ残っていた餃子を口に放り込んで、グラスの中の、少し温くなったであろうビールで流し込むと、ごちそうさん、と言って、超玉さんは立ち上がって財布を出し始めました。母は「代金は、餃子とビールだけでいいよ。素人が作った料理で、お金を貰うわけにいかないからね!」と、それもまぁそうだよな、と思うセリフを、最初からそのつもりだったように言いました。

超玉さんはニコニコ笑いながら、そのセリフに頷き、私に向かって、手招きをします。

そして、ブルゾンのポケットから、直径10センチほどもある、大きなスーパーボールを出し、私に差し出しながら、こう言いました。

出前で持ってきた味噌ラーメンな、ありゃひどかったよ。スープは冷めて油が固まりかけてたし、麺は伸びてグニャグニャだった。正直、金払うのも嫌だったよ。

でもな、そん時のボウヤの顔がさ、申し訳ない、って言ってたんだよ。怒られる、どうしよう、じゃなくてさ、冷めたラーメン持って来て、ごめんなさい、ってさ。だから、怒れなくってな。

今日の味噌ラーメン、飛び切り美味かったよ。すごいじゃないか、まだ小さいのに。よほど毎日手伝ってるんだろう。作ってる姿を見ていたけどさ、全然迷いがなかったじゃないか。

だからさ、出前が遅れたことは、これでチャラだ。もう気にしなくていいよ。でも、タダメシじゃぁ、おじさんの気持ちが収まらないからさ、特賞のスーパーボール、貰ってくれよ。

来年も来るからさ、今度はおかみさんの美味いラーメン、食わしてくれよ。坊やのラーメンがあんなに美味いんだ。おかみさんのは、極上なんだろ?来年が楽しみだよ。

たぶん、それまでの記憶にないくらい、泣いたんじゃないかなぁ。母には、その時ゲンコツを貰って、一緒に頭を下げさせられたけど、でも、本当は、自分のミスを誤魔化してやり過ごそうとしていたのに、自分でちゃんと解決できた、それも、自分の作ったラーメンで、許してもらえた。そう考えたら、涙が出てきて止まらかなった。

超玉さんが、すごい人だった、というだけなんですけどね。でも、その時は、自分の何かが変わった。そう思えたんです。大きなスーパーボールも、学校で自慢できました。すくって取ったんじゃないけど、もっと大きな何かで手に入れたボールだと、自分の中では、宝物になりました。

たぶん、私が料理に興味を持って、家庭料理ではあるけれど、一生懸命に研究しながら料理をしているのは、この時の経験が影響しているのだと思います。母は、その後2,3年で引退し、店を閉めてしまい、一家で上京してしまったので、私が料理人になることは無かったけれど、それでも、どこかでまた誰かに喜んでもらえる料理を作りたいな、という思いは、ずっと抱き続けています。

もう本編とは関係ない話なのですが、うちの食堂の唐揚げ(ザンギ)は、持ち帰り用に朝100人前仕込んでも、午前中には無くなってしまうような人気商品でした。調味料の調合を教えてくれと、随分と母に頼んでいたのですが、「まだお前には早い」とか「一子相伝だ」とか、ワケのわからないことを言いながら、ノラリクラリと逃げられていたのです。一子相伝って、俺が一子だろうが。

ところが先日、今は離れて暮らしている母が、ザンギのレシピを教えてくれました。もちろんここには書けませんけど、再現してみると、ははぁ、これは売れるだろうな、と思えるものだったので、いずれどこかで唐揚げ屋が出来ないかなぁ、と思ったりしています。

なぜ急に教えてくれたのか、ちょっと不安になりながら、その理由を聞いてみると、こう言ってました。

「暇だったからさ カッコワライ」

長生きしろ。




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