24/09/16 文字を音で読むことについて
今年の話にしては遠い遠い過去のように感じるのだが、2月から3月にかけて毎日日記を書いていた。それまでも断片的に日記を書く習慣を始めたり途絶えさせたりしていたが、この時が一番長く続き、また一定の更新頻度を保つという意味ではもっとも安定した日記だった。
文字数制限や写真の有無など気にせず、どれだけ短くてもよいからとりあえず書くという形式だったので続けられたのだと思う。質的な安定が保たれていたかはちょっとわからない。記憶が薄弱なので、アーカイブ化という意図があった気がする。それもあまり覚えていない。
3/30で毎日更新をやめたのは仕事が始まるからで、おれは絶対に仕事のことを書きたくなるので、初っ端から社会人生活をネットと融和させるのはあまり良くないんじゃないかと思い、ある意味での卒業としての日記終了だった。
この日記を書いているいまもそうなのだが、考えていることを文字に起こすというのは疲れる。かなり投げ出したくなる作業の一つだ。常日頃から考えていることは色々とあるのだが、頭の中で文字として処理されていないので変換が必要なのだと思う。エンコード負荷が高い。
図形で考える人や、文字で考える人など、それぞれの人の頭の中で処理されるリソースには特徴があると思うが、自分のそれは「音声」ではないかと思う。本を読む時に声が鳴っているタイプの人がいると思うが、その感じである。いま書いているこの文章も、書いた瞬間からすべての文字が音で聞こえている。具体的な誰かの話し声というよりは、その音を聞いた時の感覚が想起されるような感覚で情報を処理していっている。
ここに、記憶が薄いことの理由があるかもしれないと思った。すべては主観的な意識で勝手に分析しているだけなので、本当は別の『正解』があるのかもしれないが……。つまり、基本的に音で情報処理がなされているので、記憶を思い出す時に上手く音を再生することができず、文字や画像などの視覚レスで残ってしまうのではないか。松紳のトークで『道案内が上手いやつは風景が見えている』という話があったが、そういう意味ではおれは風景(外界)がマジで見えていない。まず方向音痴だし、よく物をなくすし、もっと直接的にはよく物にぶつかるし。
音の情報を思い出すのは、視覚的な情報を思い出すよりも難しそうだ。音を聞いた時の「感覚」は思い出せても、そもそも音がアナログ情報なので脳内で再-再生すること自体が原理的にできない気がする。視覚情報はそもそもメモや写真のように持って歩ける性質のものなので、構造化がしやすそうだ。
いわゆる「聴覚優位」かというとそうでもなく、ラジオとかを聞いていると一つのことが気になって次の聴覚情報がスタックしている間にどんどん消えて意味分からなくなるみたいな感じもあるので難儀だ。「聴覚情報が得意」なのではなく、「視覚情報も聴覚情報にしてしまう」感じ?
この辺りの感覚を言語化、というか文字にしたのは初めてだ。仕事でも色々なことを構造化して覚えていく必要があって、自分の思考の特徴を掴んでおきたいなと思ってこれを書いた。いまの仕事はおもしろいが、覚えることが大量にあってヤバすぎると思った時に、枝葉末節ではなく構造を理解して対応するのが最適なのだと気付いた。でも、それおれが一番苦手なやつじゃん!泣きながら頭の中の情報の構造・体系化を頑張っている。疲れる。
職場で「〇〇君は優秀だ」と言われることが結構ある(いまの部署には優秀な人が行きがちな異動先があって、そのルートに行く奴の雰囲気に似ているとのこと。一応、この褒めに言外に含まれる意味は無いものとする)。おれも上手くやろうと色々準備して働いている自覚はあるので悪い気はしないが、情報処理に関しては上記のような屈折しただるさを抱えているので、優秀と言われることがうっすらプレッシャーになっているかもしれない。あんまり優秀じゃないんですよと言いたいが、おれも頑張ってんねんという気持ちがあり、この「頑張ってんねん」の部分が評価されているのだろうな。
おれは思っていることをあまり言わず、誰に対してもどんな時でも常に遠慮がある。しかしいい加減嫌気が差してきたので、一旦フラットにした状態で思っていることを書く練習をここでしたい。今までも同じようなことを言っていると思うが、忘れてしまったのでまたもう一度やる。そういう人生ですよ。
最近こればっかり聞いてる。
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