リザード・カメール・フシギソウ
僕の進化後が、いまの僕。きみの進化後が、いまのきみ。
ポケモンというゲームがあった。ゲームボーイという携帯型ゲームのソフトだ。僕が小学生の頃、発売された。
ポケモンには、ポケモンと呼ばれるモンスターたちが登場する。彼らをあやつって、冒険の旅をすすめていくゲームだ。手持ちのポケモンを育てて強くして、遭遇する野生のポケモンや、人間たちのあやつるポケモンとの勝負を制することで話がすすんでいく。
ポケモンたちの中には、進化するものがいる。進化すると、姿かたちが変化する。能力も変化する。中には、2回進化するものもいる。
2回進化可能なポケモンたちの、1回目の進化後の姿かたちは、進化する前と、2回目の進化後の姿かたちの中間的なデザインになっているものが多い。人気投票をやったら、彼らが多くの票を得る可能性は低いのではないかと思う。おそらく、進化前の幼く愛らしい姿かたちのものか、進化後の力強く華々しい姿かたちのものが好まれるのではないか。進化の途上にあるものというのは、好まれやすさという面についていうと、相手にしてもらえない寂しい存在、といってもいいかもしれない。
ロックヒーローとして語られることのある人が、何歳くらいから作曲をはじめて、何歳には周囲に認められはじめて、何歳には商業デビューをして、何歳にはこれだけのことをやってのけた、どこそこの会場から溢れるほどの人を集めて伝説となるライブをやった、なんて話をきくと、つくづくかなわないなぁと思う。
「(あきらかに)こいつは成功する!」と認められるような段階の前、「まし」といえる程度の段階が、のちに天才として語られることになる人にもあるとしたら、それは彼らの「語られる対象とされる以前の時代」にあるのかもしれない。10代前半で周囲に認められはじめたある天才Aさんがいるとしたら、その時代は、10代前半以前、すなわち0〜10歳未満にあるのかもしれない。
そういえば、僕の耳に入ることのある天才として語られることのある人たちの幼い頃の話としてよく聞くのは、虫が好きだったとか、自然を相手に毎日遊んでいたというような話だ。0〜10歳未満の段階で、そうした過ごし方をすることで、豊かな感受性を身につけ、「まし」程度のプロセスを早々と卒業してしまったのかもしれない。そうして、天才Aさんを筆頭とする彼ら天才たちは、10代で認められ、20代で商業デビューし、30代、40代には伝説の天才として語られる、といった具合だ。
いまの僕が仮にも「まし」に入れてもらえるのだとしたら、天才Aさんたちの10代未満くらいに相当する段階なのだといえる。「まし」程度で終わらないためのしつこさや粘りを持っているつもりではいるが、大いに方向性が間違っているかもわからない。(粘るべき場所が、ここじゃなかったらどうしよう)
「若さ」として語られるような恥ずかしさ、未熟さ、だささみたいなものがあるとしたら、僕はただいまそれらを絶好調発散中なのだ。恥ずかしい30代である。
読んでくださり、ありがとうございます。みっともなくとも、生きてます。
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