大木の根元をすり抜ける小動物
この柱に寄せる稚拙な小文を書くための時間を、朝に取っています。その習慣を続けて、3年ちょっとになります。無茶してかなり余計に早起きしていたこともありましたが、今はほどほどの早起きに落ち着いています。私の現在の早起きは、人によっては早起きとは言えない程度の早起きかもしれません。
上の子どもが2016年の5月に誕生して、それからしばらくして今の朝の習慣がつきました。とにかく子どもが覚醒している間の家庭内のにぎやかさときたら、よくもわるくも、たのしくもわずらわしくも…なんてことを人生の先輩に言おうものなら「今のうち(だけ)よぉ」と笑われるビジョンが脳内再生必至です。
子どもを散歩させます。この状況においてもそうでなくても。子どもは、よその人や犬なんかにどんどん近づいていってしまいます。昨日は、家の近所の人に下の息子(1歳)が歩いて近づいていってしまって、その人に「離れようね」と言われてしまいました。私は急いで息子をつかまえて引き離しました。知っていたつもりでいたけれど、本当に自分のいる地域社会までもがそうなったんだなぁと、なんだかもやもやとした気分になりました。人どうしが物理的に近づかないでも成立する幸福や充実を実践する私の自信が、少し崩れた体験でした。この情勢の長期化に少し不安を覚えました。
もともと、家の中で曲や音や歌詞をつくりこんで、演奏したり録音したりすることをライフワークにしている私です。だから、インドアの、非接触型の楽しみの実践に自信があったのです。でも、そんな私でも(そう、ひとりよがりな楽しみや幸せに走りがちな悪癖を持つ私でも)、やはり地域や社会といっちょまえに接して生きてきたのです。その場面からもらってきた幸せや充実感を、私はまだ「非接触型」に切り替えられていないことを自覚しました。いえ、切り替えるのが適切かわかりません。ただ、そうっと、しばらく置いておく必要があるのかもしれません。そのことの苦しさを思って、心にもやが現れたのです。
大きい資本を回して生きてきた人(あるいは集団)ほど、その循環を抑制されて、日々ロストしているものが大きいのかもしれません。今は、代謝を落として、低出力低入力でいることが生き残る唯一の術なのだとしたら、それができない場合はたおれるしかないのでしょうか。大きい単位の組織を、分割して、それぞれに独立させて、個別の最大入出力を抑えることでなんとかならないものでしょうかね。もともと小さなロットを回して生きてきた私の、貧弱な発想です。
恐竜が、滅んで、今とは姿もかたちもまるで違った私たちの小さな小さなからだの祖先が生き残った歴史を思います。
お読みいただき、ありがとうごさいました。
青沼詩郎
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