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ビートルズにつづけというようなことでデビューしヒットした、そんなようなバンドや歌手がたくさんいたんだと思う。

パロディとみていいのか、二番煎じにしたって一煎目があまりに美味しすぎるからニ煎目でも許せてしまうと解釈していいのか、モノマネというわけでもないだろうにたいそうおもしろがられ、受け入れられつつ眉をひそめられつつ、とても社会に大きな影響をもたらした出来事の中心にビートルズがいた、ということなのだろう。

音楽で世界を変えた。本人たちにそんな実感があったとしてもなかったとしても、海を越えた島国の若者たちにまで髪の毛を伸ばさせ、弾けもしないギターを手に取らせ、あきらめさせたり、一生を狂わせきったりした。あるいはそのことで、真実に導いた。音楽で世界を丸裸にした。音楽で世界に服を着せた。踊ったし、踊らせた。殺しもしたし、殺された。音楽で、自分を変えた。音楽で、他人を変えた。

ロックは、学校じゃ教えてくれない。

なんて言いまわしに、出会ったことがある。ロックだけじゃない。結婚のしかたも教えてくれないし、ビジネスでの成功のしかたも教えてくれない。喧嘩のしかたも、仲直りのしかたも同様だろう。

人生に必要だったり、社会に存在する制度と折り合うためのあれこれだったり、そういったものを教えてくれる場が学校なのではない。

では、なんのための場なのか。

無理やりにでも寄せ集められて、つくられる場。ある人にとってはここちよく、ある人にとっては苦痛。ある人にとっては生きていくための手段であり、ある人にとっては命をもおびやかす。そんな場である。

どこに行くかじゃない。なにをするかだ。

なんてせりふも、擦り切れるほど聞いた……といったらおおげさだけれど、そのように感じるほどに、確かにまぁ、一理ある言葉だと思う。なにかをしたものにだけ、なにかを教えてくれるのがこの世の常だ。

だから、その場が学校である必要はない。むしろ、なにかを強いることは、みずからなにかをしようとするのを遠ざける危険すらある。

学校がなにかを強いる場だというのは、おおきな誤解かもしれないけれど、そのような誤解を誘うのにじゅうぶんな要因を備えた存在だというのは否めない。学校以外の存在があることで、そのあたりのフンイキをつかむ一助になるだろう。

家庭だとか地域だとかが、その筆頭に挙げられる。それ以外にもあるかもしれなくて、それを探すのが人生だとすら思う。それにあたるものが、ギターだったりバンドだったり、歌だったりする奴もいる。そういうことなんじゃないかと僕は思う。

バンドをやろうと、僕が言う。

一方で、バンドなんかやるなと思っている僕もいる。言われなくても、やるだろう。僕にとってのバンドが、他の人にとっての何かはわからない。学校は、学校にはないものは何かを考えるにはちょうどいい。せめて、そんな場であってほしい。

今年も1年、ありがとうございました。明日もいつもどおりでしょうけれど、そうでなくてもまた会いましょう。

いってらっしゃい、お達者で。

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