土踏まずの退屈
足の裏にある、からだの内側に向かってくぼんだカーブを「土踏まず」と呼びますね。
都市での生活をしていると、そもそも土があまりありません。(あっても、靴履いてるし。)ということで、内側にくぼんでいようがいまいが「土踏まず」なのかもしれません。都市での生活に起因して、くぼみがなくなりつつある人もいるとかいないとか聞いたこともありますが、ほんとかどうか知りません。「土踏まず」がなくなったら、足の裏ぜんぶが「土踏み」でしょうか。「土踏み」で、舗装された道路のアスファルトを踏む……もはや「アスファルト踏み(踏まず)」か、厳密には「靴の中敷踏み(踏まず)」でしょうか。なんだかよくわからないことになってまいりました。
無機物の箱の中では、人間が「取り残された有機物」でしょうか。このままいったら、自分たちのからださえもどんどん無機物に置き換えられて……という具合のSF作品みたいな未来には、そう簡単にはならないような気がしています。
東京駅の近くを、自転車で通り抜けたことがあります。覆いかぶさるかのようにそびえ立つビルの圧迫感に、なんだか痛ましく、物悲しい気持ちになったことを憶えています。えらいもん作ってくれたな、と。じぶんのからだが、機械に置き換えられているかのような気持ちになったのでした。そんな経験は持ち合わせていないのに、どうしてそう感じるのかが不思議です。
人間は、同質性に安心を感じるのかもしれません。これは、差別だとか、異質なものを排除しようとする反応の根っこにある性分なのかもしれません。そう考えると、コンクリートとも仲良くしなさいということになるのでしょうか。コンクリートだってアスファルトだって(その両者のちがいもよく理解していない僕ですが)、もともとは地球上(あるいは宇宙、自然界)にある物質でできています。単に人の手が入っていないものを指して「自然」という場合、そもそも「自然」の方が我々にとって異質なものであるともいえるでしょうか。だとすると、超都会の高層ビルの一室で「おれ、虫にがてなんだよね」とかいいつつ夜な夜な酒を飲むような生活も、そこそこ風流なのかもしれません。そのような経験の持ち合わせは、僕にはないのですけれど。
暇そうな自分の両足の土踏まずを、なんとなく合わせてみる。
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