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888文字のサンドウィッチ

それまでの自分が崩れるところに、僕は生きる価値を見出しがちです。「生きる価値を見出す」なんていうと、大げさな気もしますね。単に、生きてきてよかったと、そう思うというだけです。まだ生き続けることで、こんなこともあるんだなぁと、ただそう思うというだけです。

「それまでの自分が崩れる」には、「それまでの自分」が要ります。崩れるものなしには、崩れるという現象は起きません。

あるとき触れたことが、なんだかよくわからない、ということがあります。すごく卑近な例といいますか、本心から卑近だと思っているわけではないのですが、僕にとってだけ身近かもしれなくて、他の人にとっては決して身近とはいえないかもしれないことをここでは仮に卑近であるといわせてもらうとして話を続けますと、たとえば、あるとき読んだ漫画や何かが、とても難しいと感じた、言い過ぎをおそれずにいえば、面白くなかった、なにがなんだかよくわからなかったとします。そこだけを聞くと、それはあまり良い体験のようには思えません。どうせなら、「すごくよくわかった」とか「面白かった」とか思えるような漫画を読んだ、という体験がひとつでも多く得られた方が、良いような気がしてしまいます。

ですけれど、そこで「わからなかった」「おもしろくなかった」という、未来の自分にとっての「それまでの自分」になりうるものを築いておくことで、未来の自分が「崩す自分」「崩せる自分」を得られることになります。今の自分は、「かつての自分」を崩すことのできる存在であると同時に、将来自分が崩せる「自分」をひとつでも多くこさえることのできる唯一の存在なのだと思います。

だから、今の段階でいまひとつピンと来ないものに触れたとしても、そうした体験の蓄積こそが、未来の自分が「これまで生きてきて良かったな」と実感するための、財産みたいなものなのかなと思います。あるいは、それに等しいものに化ける可能性を秘めた素材、といったところでしょうか。

そうやって、僕らは「これまで」と「これから」のすき間に挟まっている、サンドウィッチの具みたいなものなんだなと思います。

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