フィクションのおかしみ
『ドラゴンボール』という世界的に有名な日本の漫画がある。僕も子どもの頃に読んだ作品だ。
それから10年も20年も経って、あっという間に僕は大人になってしまった。この間に、ドラゴンボールについて振り返る機会はこれといってなかった。何気ない会話の話題になることはあったが、内容について吟味したり深く分析したりすることはなかった。
ところが先日、僕があるライブハウスに出演したときのことだった。終演後に店長や出演者で飲みながら話をしていたときに、『ドラゴンボール』の話になった。そこで店長が、火がついたかのように、そのストーリー展開の「おかしさ」について語り出したのだ。ここでいう「おかしさ」とは、「笑える、楽しめる」といった意味での「可笑しい」や、良い意味での妙さや味わい深さを表す「おかしみ」ではなく、おそらく「納得できない」「受け入れて楽しむことができない」といった意味での「おかしさ」である。
店長はおそらく「納得できない、腑に落ちない」といった意味での「おかしさ」について具体的に語ったが、その指摘にあたる部分についての仔細を、僕はほとんど憶えていなかった。(へぇ、そんなシーンあったんだ)なんて思ったり、実際に口に出したりしながら僕はひたすら相槌を打って店長の話を聞いた。
相槌を打ったり神妙な顔をしてみせたりしながら、次第に僕の中に、相反するふたつの思いが芽生え、生長していった。ひとつは、かの名作漫画のストーリー展開の「おかしさ」について、そんなにたくさんの点に気づき、見出せる店長のその感性の鋭さ、独自の論理性に純粋に感心する思いである。もう一点は、まさしくそういったストーリー展開の「おかしさ」だったり、ある種の論理性の凌駕だったり、「文間(行間、ととらえてもらっても良い)」における飛躍・跳躍それこそが、「妙だ」とか「笑える・楽しめる」といった意味での「おかしさ」なのではないか、という思いである。
話を聞いているうちに、次第に僕の中で後者の方の思いが強くなっていったのだろう。ふと僕が、「フィクションだからさ」とこぼすと、店長は「それ、一番言っちゃいけないやつ」と拾って返してきた。そう、後者の思いを僕が肯定するほどに、前者の立場からそれは否定されるものになる。「おかしさ」が、それそのまま「おかしさ」なのだから。
僕が最後に『ドラゴンボール』を読んでから、おそらくもう20年以上経過している。今あらためて作品を読んだら、店長が指摘する点がいかに「おかしい」かが、僕にも納得できる可能性は今の時点では否定されるものではない。でも読んでもやはり納得できず、それでいて店長を納得させられるような反論が僕に可能かと言われるとたじろいでしまい、あらためて『ドラゴンボール』の単行本を求め、集めて読み返すことをためらわせるくらいに店長の論調は強いものだった。
フィクションにおいて、「それ、おかしいわい」を探し始めるときりがない。だからこそフィクションなのだが、「それ、おかしいわい」勢にとっては「だからこそフィクション」発言自体が、もうすでにおかしいのである。そうなると、彼らが楽しめるものはドキュメンタリーやノンフィクションのみなのか? という思念がよぎるが、彼らは間違いなくなんらかの種類、あるいは固有のフィクションを楽しんで過ごしている。「じゃあきみは、どの作品が好きなの?」と訊けば、答えてくれる人ももちろんあるだろう。
今回のことで、僕は認知した。人によっては受け入れがたい「おかしさ」を含んだ表現に対して、馬鹿になって楽しめる自分、鈍感になって楽しめる自分の存在を。
ただ、ここでいう馬鹿さ・鈍感さは、あくまで特定の視点のみによる馬鹿さ・鈍感さである。別の視点によれば、それは懐の深さといってもいいし、素直さとでもいえるかもしれない。この議論のいく先には、性善説とか性悪説といったものにたどり着く道もあるかもしれない。
「おかしさ」を見いだし、指摘する人は、すでにその表現を一旦受け入れているとも解釈できる。受け入れないことには、どこに「おかしさ」があるのかわかるはずもないからだ。そう思うと、僕はそもそも、多くのフィクションをまだ「受け入れてさえいない」のかもしれない。未受領の作品が詰まった本棚に囲まれて生きている気分になる。
お読みいただき、ありがとうございました。
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