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ヨッパライノート

じぶんが酔っていることを否定する酔っ払いがいる。酔っ払うことは恥ずかしいことだ、という認識があるのかもしれない。自分は恥ずかしい人である、ということを認めたくないのだろう。

酔っ払ったならば、酔った自分を認識して、酔ったときなりの適切な行動が必要になる。適切な行動とはなにかを判断する力が酔うと失われるから、これは結構難しいことかもしれない。酔っ払ったときにだけ急に心がけようとしても、できない。平常時から、酔っ払って判断力が弱まったときでも、残りわずかな力で適切な行動がとれるように訓練しておく必要がある。

なんだかおおげさな言いようかもしれない。まずは第一歩、酔ったら酔った自分を認めること。そうでないと、酔ってないときにのみ有効なマニュアルをめくって、ぐらぐらするあたまでこんなときどうするんだっけ、といった具合に間違ったページを参照し、内容を読み違え、すっ飛ばし、挙句の果てに、ええい俺にはマニュアルなんて必要ないと放り投げ、力を失った本能のおもむくままに行動することになる。

酔ったときは、自分と対話するといいと思う。誰かをつかまえて話を聞いてもらいたくなるけれど、まずは自分で自分の話を聞いてやってからでも遅くない。酔っている自分を自覚して、見守ってやる自分をもうひとり、自分のなかに設けてやろう。酔っている自分だけがすべてかのように思い込んでしまうことが、他者を巻き込む動機になる。まずは自分に打ち明けて、他人の力が必要かどうかの判断は、その後でも遅くない。

酔っているひとは、だれかにそばにいてほしいだけの場合があるようだ。その場合は、自分を見守る自分をもうけてやると、それだけで落ち着き、充足が得られる。もちろん、どんな迷惑をかけられてもかまわない、と許してくれるひとが身のまわりにいるのなら、そのひとに協力してもらって、そばにいてもらってもかまわない。

具体的には、酔った自分の考えていることを書き出してみるといいと思う。手帳でもメモでもなんでもいいし、多くのひとが持っているであろうスマートフォンで、ことたりる。

書き出すという過程を経るだけで、酔っ払って書きなぐった自分と、それを見る自分との間に距離ができる。自分を見守る自分をもうける、なんてことは曲芸のように思えるひとがいたとしたら、試してもらいたい。

書き出すというのはひとつの手段だ。

自分を写真や動画の被写体にして、自分で撮って見てみてもよし、話や声、歌を録音して聞いてみてもいいし、鏡の前に立ってみるでもいい。相手がいるならば、そのひとに「鏡」になってもらうというだけだ。とてもハードルが低くて実行しやすい手段として、書き出すという選択肢は心強い。

酔っ払ったときにだけお呼びのかかる、自分の「ヨッパライノート」をつくってみてもおもしろいかもしれない。

なんかこわくて読み返したくないけれど。

意外に自分のことを微笑ましく思えたりするんじゃないかと、想像する。

酔っ払えるということは、それだけで幸せな状態にあるということ。

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