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ごはんを食べるように、ごはんを食べるように。

どきっとさせられるような言い方(表現)がある。一方で、伝えられる事物そのものが相手をどきっとさせるものもある。

「あっっっっ!」
「な、なに?!」
「……鳥が、飛んでいる」
「なんだ、そうかよ」

この場合は、表現(ただの表出でもいい)を受け取る側が、鳥が飛ぶということ自体はなんとも思っていない例である。(鳥が飛ぶということが、なんともないかは別として)

「……見て」
「なに?」
「生身の人間が飛んでるよ」
「えっっっっ!どこっ?!」

こちらは、たぶん表現(ただの指摘でもいい)を受け取る側が、伝えられようとしている事物そのものに驚いている例だ。(そんなことがありえるかどうかとか、信じる馬鹿はいないだろうといったようなご指摘は、ここでは慎んで目をつぶらせていただくとして)

フィクションという、あそびがある。うそみたいな、フィクションもある。本当みたいな、フィクションもある。フィクションみたいな、本当もある。

おもしろい小説を書いて出版することも、おいしいケーキをつくってガラスケースの中にならべることも、おんなじようなことなのかもしれない。

どれもこれも、おもしろい。おもしろかったり、うっとりしたりする。はっとするかもしれないし、ほっとするかもしれない。

おたのしみの時間というのは、持たなくても生きているのかもしれない。いっぽうで、なければやはり生きていけないとも思う。

眠る、食べる、気候にあった服を着るといったことは、ただそれだけで、おもしろい。いや、気持ちが良いと言ったほうが、的確かもしれない。その区別を混同するところが、人間らしいと思う。

ぼくたちは、ときにごはんを食べるように小説を読むし、音楽をきくし、映画を観るだろう。ごはんを食べるようにごはんを食べることさえあると思う。

そんなことできないというか、論理が破綻しているというようなことはこの際どうでもいい。ごはんを食べるかのようにごはんを食べる、という破綻した論理さえも、ときに味わうことができると思う。僕がそう思っている以上は、破綻した論理もそこにあることになる。

このことと、触ったら熱くて火傷してしまうような電気ヒーターがいま僕の目の前にあるということの間には、果たしてどれほどの乖離があるのだろうか?(一生、そのすき間に挟まっていたいとも思う。勝手にどうぞと言われれば、ありがたい)この時間は、僕だけのものだ。このスペースは、電気ヒーターが存在してくれているおかけで定義づけられている。僕やあなたがいるというだけで、この世界は、おもしろい。

「あなたも一緒に、どうですか?」
「何を?」

って言われれば、なんでもいいのだけれど。とりあえず、ごはんを食べるように、ごはんを食べるのはどうでしょう?

読んでくださり、ありがとうございます。

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