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まぁだだよ

過去は変えられぬ、「まだ」は変えられる。

30代、妻と男児2人を子育て中の私です。若いときよりもルーティン化した毎日が、快速急行で突き抜けるよう。劇的な変化に乏しいがために、時間が毎日、すぐに過ぎていってしまうと思いがち。ですが、本当にそうなのでしょうか。

2人の子どもたちの変化。それはめまぐるしく、昨日までにはなかった語彙を身につけて披露してみせる。そんな日があってから、次の変化を見せるまでにかかる日数は、そう長くもない。彼らの変化を観察する日々が、果たして変化に乏しいのか。そうとも限らないのではないか。

自分の人生なのに、子に焦点を当てるのがそもそもずれているのかもしれません。そう、私は、誰より私に眼差しを向けてきたはず…と言っておきながら、不安になる。自分で自分は見られないからです。

鏡をつかえば、左右ひっくりかえった、自分に限りなく似た男の姿が見られます。動画撮影すれば、デジタルか磁気かはさておき、信号を経たやはり自分に限りなくにた姿の男が見られます。でも、いずれもやはり、限りなく私であって、私でない。

全貌をいっぺんに直接見られやしないけれど、手や足やおなかやら、体の一部であればその場で直接見ることができます。…だから何? 昨日、たまたま、まじまじと自分の両手の人差し指を立てて、手の甲を上にして眺めてみたんです。すると、思ったんです、自分の人差し指って、こんななんだと。ぞっとするようなきもちわるい話で申し訳ないのですけれど、この指が、ぽろっと取れて外れてどこかに落ちていたとして、それを私は自分の指だと気付けるでしょうか? 他に似たものがなく、似た状況に陥っている他の人もなく、ぽつんとそれだけがそこにあったのなら自分のものとわかるかもしれません。でも、仮に、似たような状況に陥っている人がたくさんいて、似たような「それ」がたくさんそこらじゅうに落ちていたら…私は、自分のものである正真正銘の「それ」だけを迷わずに見分けられるでしょうか。自信がありません。

若ければ若いほど、可能性に満ちている? 若者に余命が長い可能性が高いのは、事実でしょう。だけれども、その年代における変化の豊かさの量につける優劣、それは思い込みなのでは?

慣れが、繰り返しが、変化への感度を鈍らせるのかもしれません。私がいまここで記憶喪失になっちゃったら? 慣れ親しんだはずの家族も、自宅の風景もすべてわからなくなっちゃったら? すべてが初めて、のように感じたら? それは劇的な変化でしょうか。

変化の認知のためには、変化する前が分かっている必要がありそうです。前がわからないんじゃ、何が変化したのかわからない。物心つくまえの乳幼児の変化は激しいですけれど、本人にその変化が認知できているか? 私にはその記憶はありません。あなたは、覚えているでしょうか。それを観察する大人が、子どもの成長は豊かで、変化が多い、とか思っているのです。

これまでに過ごした時間の長さに対して、現在の1分1秒といった絶対的な時間の量が占める割合が、人生を長く送るほどに小さくなっていくがために、年をとると時間が経つのが早く感じられるという説を聞いたことがあります。その説に納得した私がいるのも確かです。ただ、うまく説明できていそうな感じがする、というくらいのことでしかないようにも思います。「時間に絶対的な長さ、質量」をあてがうのって、ほんとうはどこか無理があるんじゃないの? なんて、非科学的な私が疑っている。科学的に確かな量があるとかないとかは、ひとまず別にして。

まだ変えられる未来が、楽しみです。

青沼詩郎

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