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幸せの総量は増えるか

何かをすれば、何かが代償になる。幸福の総量は増えるか?

 私が肉を食えば、生きられます。でも、肉となったからだの持ち主の命は消えます。何かすれば、かならず何かが犠牲になること、エネルギーを割けば、そのエネルギーによって生きられたかもしれないものが生きる機会、生き続ける機会を奪ったということになりかねないことを、私はいつも思います。

 肉となって私に食われたからだの持ち主は、私に食われるくらいなら「生まれてくるんじゃなかった」と思うでしょうか。それとも、「お前のほうが強い者だった。私が食われて死ぬのも仕方ない。生まれてきてよかった」と思うでしょうか。

 立場が逆だったらどうでしょうか。私より強い者がいて、私は食われて死ぬとします。私は「あんたの方が強かったね。私があんたの糧となるのも仕方ない。生まれてきてよかった」と思えるでしょうか。どうか。うーん。少なくとも、「あんたに食われて死ぬなら、生まれてくるんじゃなかったよ」などとは、私は思わないと考えます。生まれてきたこと、生きられたこと自体は、よかった。現状の私はそう考えています。

 でも、健康上の理由とか、その人固有の都合があって、生まれてきて、生きてきて、「生まれてくるんじゃなかった。生まれてこないほうがよかった」と思わざるをえない程、苦しい思いばかりをしつづけて生きた人、生きている人だっているかもしれません。私などが、「でも、この先も生き続けていけば、生まれてきて・生きてきてよかったって思えるようになるかもしれないよ」などと軽はずみに漏らすことなど許されないのではないかと思えるほどの、厳しく苦しい状況にある人だって、いるに違いありません。

 強者に食われて死ぬことは、生まれてきたこと・生きてきたことそのものの価値を否定する材料にはなりません。だれかが命を落とさないと、だれかの命が保てないのだとしても、「生まれてきて、生きてきてよかった」と思えることが幸せなのだとしたら、その「弱肉強食」だとか「等価交換」だとかの法則が、「幸せの総量の増加」と必ずしもぶつかることは、なさそうに思えます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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