支離滅裂の登場人物
毎日続けていることは、ときに、やめることや休むことのほうが大変に感じられるのかもしれません。
休むほうが、大ごとになってしまうのですね。毎日続けていることをひとたび休むことへの不安ときたら、傍でつねに揉みほだす準備を万全にしてこちらをうかがっているあんま師のようです。
どんなに「今日だけは休めないかな」と思っても、本当に休むことはしない……それは、プライドのせいでしょうか、それとも見栄でしょうか。そういうものというよりは、自己矛盾を回避して、自己の統一性を重んじようとする、人間にもともと備わっている性質、というような気がします。
わたしやあなたにそういうものが備わっているとして、わたしたちはいつそんなものを身につけたのでしょう……前言を撤回することになりますが、もともと備わっている性質なわけがない、とも思います。人の間で、社会の一員として生きる過程で身につけたことなのではないでしょうか。
たった今の発言や考え方、意見や態度などとはまるで違うそれを、ザッピングするかのようにコロコロと変えることは、人の間で生きる際に、信用を築きにくくする姿勢のように思います。
ここでふと気になったことは、それはあくまで「姿勢」くらいのものなのだなということです。その人の「姿勢」は、何かに向かっていく際の過程にある、連続したひとつづきのシーンのうちのひとコマでしかないのです。
大局的にみれば、だれもがザッピングするかのようにコロコロと変わる態度を見せているのではないかと思います。1年間の成長の過程で身につけたことによって、1年前のわたしとは意見が変わった! ということなら受け入れられやすいのかもしれません。それが、「昨日と今日」くらいの隔たりだったり、「さっきと今」くらいの隔たりになればなるほど、理解されにくくなる傾向はないでしょうか。
多くの「物語」は、原因と結果がきちんと整列しています。これこれこういう経緯で、このようになったのだということが、きちんと理解されうるかたちで提示されるものがほとんどでしょう。
ですが、人間のあたまの中というのは、案外そんなふうにはなっていないのではないかと思うのです。
にわか雨が降ったり止んだりするかのように、いえ、もっともっと光の点滅するような速さで、まったく相容れない思考が飛び交い、意識の表層に登ったり降りたりしているのではないでしょうか。
まあそんなことからですね、態度や意見がコロコロ変わる人を見かけたときでも、それはごく自然なことなのだと理解していただきたいのです。いえ、理解に至らなくともよく、ただ、無闇に窘めたり咎めたりするのではなく、認めて(見留めて)見守ってやるくらいのことで良いと思うのです。
なんでこのような弁護をしているのかというと、わたしがそうだから……かもしれません。
いやいやそんなことはない! というわたしがすぐさま顔を見せます。(やっぱりそうじゃん)
読んでいただき、ありがとうございます。
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