某の橋
登場人物が、橋の上を疾走するシーンをドラマか何かで見たことがある。なんの作品だったかと言われると、自信を持ってタイトルを挙げることができない。それくらい、ありふれていてよく描かれがちなカットなのかもしれない。
橋があるということは、そこに水場があるということである。例外もあるかもしれないけれど、たいていそのような地形は、水の存在が起因となって、多かれ少なかれなんらかの影響をもたらして形成されるものと思う。今は流れていなくとも、かつて水が流れていたためにできた地形だったり、ふだんは渇いていても大量の降雨があったときにだけ流れる川だったりする場合もある。
いずれにしても、水場の近くに、人が集う。人が集えば、ドラマが生まれる。
命をつなぐ水であるが、その存在が、岸どうしを分断もする。あちら側とこちら側を隔てる境にもなる。その隔たりを人工的に越えさせ、結ぶ存在が橋である。
境を越えようとするとき、その人にはなんらかの意思がある。越えようとする動機は、さまざまである。
あるいは、これといった意思や動機がない故にたどり着いてしまうのが、橋の上なのかもしれない。あちらの岸にも、こちらの岸にも、意思や動機に関するものばかりが満ちて感じられるとき、その人が押しやられるようにしてたどり着く場所こそが、橋の上なのかもしれない。
橋の上が、ついつい表現のツールとして用いたくなる場所であるというのは、作り手たちがそうした表現の含まれる作品にたくさん出合って育ってきたことを示しているように思う。表現における「橋の上」という要素が、日常会話で頻出する単語や、慣用句や、常套句のような役割を担っているのかもしれない。安易に用いれば、鼻水のように拭き去られる陳腐なシーンになってしまうかもしれないし、適切に用いれば、名シーンにもなるだろう。その境目は、紙一重かもしれない。その両岸にかかる橋の上を狙うくらいの精度とバランス感覚があれば、唯一無二の新しさを演出できるだろう。フィジカルな橋に対しての、形而上の橋である。
橋の上や下にいるとき、人は多くの場合は、水の流れを望んで、立ったり座ったりするだろう。橋の上や下から望める景色に対して、背を向けることは少ないのではないか。どちらを向いても景色は景色だとしたら、より開けているほうを選んで、人はからだを向けるように思う。その先にあるのは、水であったり、空であったりするだろう。並んで座ったり立ったりして、それらを眺めながら話をする人たちもいることと思う。同じほうを向いて、同じ景色を共有することを介して、相手の心と通じ合えるのかもしれない。そうした場面の背景や足元やどこかしらに橋が写り込むのは、自然で当然で必然だ。もはや何然かわからない。
意思から、意思へ。
動機から、動機へ。
その移ろいの過程に、橋がある。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
たくさんの人が通るから、名前をつけられる橋もある。
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