で、カフェにいる。
カフェに行く。
で、なんもしない。
もちろん、注文はする。
頼んだ飲み物は、飲む。
それはする。
なんもしないというのは、なんだろう。
自分で言っていて、へんなことばづかいである。
なんもしないなんて、できないではないか。
息をしているし、心臓も動いている。
自律神経系の運動は除く、とかいう前提でもあるんだろうか。
前提があるって、何に対しての前提だろう。
特に課さなくてもよいような前提を、自分に強いていやしないか?
そもそも、前提を強いるってなんだろう。
自分で言っていて、へんなことばづかいだなぁと思う。
で、カフェにいる。
なんもしない。
飲み物をのんでいる。
ボーッとしている。
人の往来を見ている。
客の観察をしている。
店員の観察をしている。
店員でもないし客でもないという人間は、ここにはそうそういない。
いたとしたらきっと、何事かあったときだ。
一度、カフェに警察が来ているのを見たことがある。
もちろん、おまわりさんは、お茶をしにきたわけではない。
なにやら店員に事情を聴いているような様子だった。
なにかしらの事件があったのだろう。
どのような事件だったのかは、知らない。
僕は、おまわりさんと店員さんが話す様子を見ていた。
飲み物も飲んでいただろう。
それか、もう飲み終わった頃だったかもしれない。
あの事件は、なんだったのか。
わからないまま、カフェにいる。
やはり、なんもしない。
文字を書いている。
紙に書いているわけではない。
ワープロにカタカタと打ち込んでいるわけでもない。というか、ワープロを持っていない。
パソコンなら持っているけれど、今は持ってきていない。
持っているけれど持ってきていないだなんて、自分で言っていてへんなことばづかいだなぁと思う。
でも、だって、持っているけど、持ってきていないんだもの。
しかたがないじゃないか。
で、まだカフェにいる。
マグカップは、からっぽだ。
わざわざマグカップに入れてもらえるように、頼んだのだ。
この店では、何も言わなければ使い捨てのカップで飲み物が出てくる。
注文しなくても出てくる、というわけではない。
注文したとしても、自分でカウンターに取りに行くか、レジでその場でもらって席まで自分で運ぶのだ。
席も、自分で確保する必要がある。
これを、セルフサービスと僕は呼んでいる。他の人も、そう呼ぶかもしれない。
セルフサービスってなんだろう。
自分で言っていて、へんなことばづかいだなぁと思う。
このことばを考えたのは、はっきり言っておこう、僕ではない。
引き続き、カフェにいる。
引いたつもりもないし、続けたつもりもないのだけれど、引き続きカフェにいるのだ。
座っているだけでそうなるのだから、ものごとが「引続く」ことと、「座っている」こととのあいだには、深〜い、深〜い、相関関係があるように見てとれる。
特に何を見たつもりもないのだけれど、見てとれるのだ。
どうだ、すごいだろ。
で、まだカフェにいる。
「ものごとが引続くこと」と、「座って過ごすこと」との間の深〜い相関関係を、たった今見出したところである。
何もしていないようで、けっこうな仕事をしているじゃないか。
ちなみに、このことによって僕は、誰からもお金をもらっていない。
どちらかといえば、お金を払って、飲み物をもらっているのだ。
「ものごとが引続くことと、座ってすごすこととの間に深い相関関係を見出すこと」と、「お金を払って飲み物をもらうこと」との間には、切っても切れない関係があるように思う。
なんか、それってイイ関係じゃないか?
イイ関係というのは、恋愛関係とかそっち系のやつである。
なんか、色めき立っているやつである。
何が色めき立っているのかは、自分でもよくわからない。
世間は春だ。
たぶん、世間じゃなくても春だ。
世間は、僕を仲間に入れてくれるだろうか。
僕は、世間を受け入れられるだろうか。
百歩譲ってそれができたとして、果たして「春」は、僕らを受け入れてくれるだろうか。
「僕ら」なんていって、ちゃっかり、自分と世間をひとくくりにしてやったぞ。
どうだ、すごいだろ。
まったり、カフェにいる。
ちゃっかり、僕は、世間になれる。
慣れる、ではない。
「なれる」のだ。
英語でいったら、beだ。
be的なやつだ、たぶん、確か、そうだよね?
中学のときは、勉強をした。
たぶん、その前後も勉強したと思う。
今も、勉強している自負はある。
勉強とは負うものだったのか。
つくづく、ことばには気をつけなければいけない。
うかつに、しゃべれたもんじゃない。
もういっそ、しゃべるのをやめてみよう。
そうだ、それがいい。
「もう、なんにもしゃべってやらないんだから!」
実際には言っていない。
ひとりでカフェに座っていながら、「もう、なんにもしゃべってやらないんだから!」とか声に出していたら、すごくやばい人だ。
少なくとも、僕はそんな人を見たことがない。
いま、ここで、チャレンジしたらどうだろう。
ひとりでカフェにいながら、「もう、なんにもしゃべってやらないんだから!」と言うのだ。
これは、検討の余地もない。
却下である。
みんな、思い思いに過ごしているではないか。
となりには、英語のテキストを開いている人がいる。
そうだ、この人に、さっきのbe的なやつの語法を訊いてみたらいい。
正しいことがわかるかもしれない。
「あの、すみません」
と、喉元を出かかったところで、僕は思いとどまった。
みんな、思い思いに過ごしているんだから。
邪魔しちゃあいけない。
実際そんなことをしてしまったら、恥ずかしいことになるじゃない。
それはたぶん、相当な精度で間違いない。
恥ずかしいし、迷惑だろう。
まったり、カフェにいる。
まったりだなんて、自分で言っていてへんなことばづかいだなぁと思う。
でも、嫌いじゃない。
むしろ、好きだ。
素直じゃなくて、スミマセン。
こっちを向いて座ったり、あっちを向いて座ったりしている、いろいろなお客さんがいる。
午後7時を過ぎたところで、まったりとした雰囲気だ。
そんな形容が、しっくりくる。
なんだ、まったりしているのは、僕だけではないではないか。
まったりは、共有できる。
これは、良いことがわかった。
もういいか、と思ってカフェを出る。
嘘。
本当はまだ、カフェにいる。
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