陣取り合戦 in My Body
なるべく、じぶんのしたいようにする。そうした姿を、隠さず見せる。これが、僕がじぶんの子どもと接するときに心がけていることです。
心がけているというほどのことでもなくて、単に意識の表層付近にある、程度のことかもしれません。そうして過ごしていると、自然とじぶんの行動も、隠さずに見せられるようなおこないにフォーカスされ、シフトしていくように思います。
こうした僕と暮らした影響なのか、僕の子どもは、日々自由にふるまっているように見えるし、じぶんが貫きたいと思うことにまっしぐらです。眠る前に歯を磨こうとか、定時までに着替えを済ませて保育園に行こうとか、そんなことは知ったこっちゃありません。いま「ボクがしたいこと」が、彼にとっての命題なのです。
僕は、階段をよくつかいます。エスカレーターがあっても、わざわざ階段をつかうことが多いです。単にエスカレーター上には人が多く、心理的に嫌だからだと思うのですが、余計な脂肪がからだにつかないようにとか、筋力がおとろえないようにとか、もっといえば健康寿命をすこしでも延ばすためといった意識が根底にあるのかもしれません。それは、将来にわたって「らくでいたい」がために、毎日に対してすこしずつの「らくじゃない」を割り振っているのかもしれません。なんだか矛盾しているようですが、人間って矛盾していると思い込む生き物なんだと思います。
日々のすこしずつの「らくじゃない」を拒みつづけて、溜まりに溜まった「らくじゃない」が将来ドーンと一気に来たら、それまでの「らくじゃない」と引き換えに受け取って来た「らく」のすべてが、崩れ去るかもしれない。そんな未来と、そうでない未来を秤にかけて、僕は日々すこしずつの「らくじゃない」(そして、同時に得られる「らく」)を受け取るほうを選んでいるのかもしれません。
ただ、そのために、エスカレーターをつかえる状況であえて階段をつかうといった行動が本当に与しているかどうかを、究明する術はありません。理論的に正否を判断することはできるでしょうけれど、理論がすべてを包含できるとは思えません。(いえ、包含できるからこそ「理論」なのかもしれませんが)
そうなると、そのときそのとき、気持ち良いと思えるほうにしたがっているだけ、というじぶんの姿が見えてきます。つくづく、短絡的なやつだなぁとも思うのですが、そのことが悪いとも思えません。
「無意識のところ」のじぶんを尊重する傾向が、僕にはあるのかもしれません。「無意識」と「意識」が陣取り合戦をして、勝ったほうの政治がおこなわれ、その結果としての僕があるのでしょう。やや「意識」勢の勝率が低いのかもしれません。
僕の子どもにしたって、「寝るまえに歯を磨くよりも先に、いま、あそぶ」「着替えを済ませて、定時までに保育園に行くよりも先に、いま、あそぶ」ことの積み重なった先にある未来までを見据えたうえで、両者を秤にかけて「いま、ボクがしたいことをする」と判断しているわけではないでしょう。(そもそも、その両者のゆく末を究明することはかないませんが。)やはり、彼のなかでも「無意識」勢が勝っているのかもしれません。
「意識」の獲得こそが大人のアイデンティティだとしたら、僕は、足りない父親でごめんなさいと、じぶんの子どもに謝らなければならないかもなぁ……。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。
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