「果てる・果てない」の果てに 〜Taste of a Life〜
縄文時代の人たちの寿命は、30歳くらいだったというようなことを、耳にしないでもありません。現在32歳の僕は、縄文時代の寿命に照らし合わせて言ったら、完全に人生のエクストララウンドに突入していて、その最中にいるわけですね。
僕には2歳5ヶ月の息子がおりまして、もう自由にそこらじゅうを走り回っています。発語も多く、よく場を仕切ります。僕はよく、息子の指図を受けます。「何々をして」だとか、「何々しないで」だとか、よく言われます。僕が縄文時代の人だったら、そんな息子を見て、「自分も役目を果たした。あとは静かに死を待つのみ……」なんて思うのでしょうか。
現代を生きる僕としては、いつまでも死なないつもりでいるわけでは決してありませんけれど、少なくともまだ当分死にたくはない気持ちで毎日を過ごしているわけです。現代的にいったら、いっちょまえに死ぬにはまだまだ何もしていなさすぎるのかもしれません。息子が自由に走り回って、そのへんにあるものをとってきて自分で食べられるようになったくらいでは、親の役割を果たしたとはいえないのではないかと……自信はないのですが、部分的には、きっとそういってよいのではないかと思います。
なるべく子どもでいたいなぁなんて思います。子どもの心を持ち続けていたい、子どもらしい感性や価値観を持ち続けていたい、といった意味です。仮にそうした「子どもらしさ」があるとして、もし縄文時代だったらば、そうした子どもらしさを失う頃には間もなく人生の終幕近し……というタームだったかもしれません。でも、現代の社会においては、親はそう簡単に死ぬわけにはいかない。ですから、なんといいますか、つとめて生きようとする心……これが僕の思う「子ども心」と重なる部分があると思っているのですが……、知ろうとする、できる・やれるようになろうとする意欲みたいなものを持ち続けていないと、途端に残された人生がつまらなく、重苦しいものに思えてしまうのです。まだまだ文化・風習・社会的に課せられた「親」としての役割が果たされずにたくさん残っているからこそ、なおさら僕は、つとめて子どもみたいな心を持ち続けていたいと思い、子どもであることに憧れを抱いているのかもしれません。
この国で生活していると、こと果てた人間(つまり人の死体)が路上に転がっているというような光景に出くわすことはまずありません。ですが、世界にはそのような国が、実際、今もあることと思います。そんな地域で暮らしていたとしたら、僕の先祖たちや、親たちや、僕や僕の子どもたちやらの死生観というものも、だいぶ違ったかもしれません。
死ぬことの現実味こそが、生きていることの現実味を担保するのじゃないかとも思います。僕にもいつか「『生き死に』を味わい切った」なんて思える日が来るのかもわかりません。死んでしまったら、何かを感知することはできないでしょうけれど、亡くなってしまった人を指して、生き残った人たちが「あいつは幸せだった」なんて言ったりすることがあります。死んだあとでも、幸せになることがあるみたいです。
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