老いも若きも、みな師匠
どんな人からだって、何かしら学ぶことがある。どんな人と関わったって、つまらないことなんてない。ちょっとあげ足取りみたいな言い方をすれば、関わってみたけれどつまらなかったという経験でさえ、なにかしらの学びをもたらしている。
「関わってみたけど、つまらなかった」なんてことが本当にあるかどうかわからない。そんなこと、おこがましくて口が曲がっても言えないし言ってはいけないような気もする。なにか必死で心の中のまとまりのないもやもやしたものを言いたいがためにそんなことを述べてしまう僕の口は、だいぶねじ曲がってしまっているのかもしれない。
「関わってみたけど、つまらなかった」ということが仮にあり得るとして、その表現は不適切だろう。どうも僕が思うに、どんなものにも価値はあるけれど、その価値を利用できるかどうかは、そのときのお互いの状態によって違ったりする。つまり、「ご縁」という言葉でしばしば表されるような、タイミングというものがあるように思う。
ある人にとって、いまならばその価値を利用できることが、10年後、あるいは10年前のその人がその価値を利用できるかどうかは、わからない。
このことを反対側から利用する考え方を試みてみると、10年経とうが20年経とうが、あるいは同じだけの時間をさかのぼったとしても、利用できる価値があるようなものと出会うことを目指すといいのかもしれない。
あるものとの関わりによって学べることは、どんな年代の自分かによって全然違うことがある。「あのとき」読んだ漫画をいまいちど読んでみると、「あのとき」には気にならなかったような部分がひどく印象に残ることがある、といったように。
砂と土とほこりと虫とコンクリートがともだちだった幼い自分にも、同じ年代のたくさんの仲間と過ごした学生の自分にも、結婚したり子どもを持ったりしているいまの自分にも、仕事や趣味に打ち込む自分にも、老いていく自分にも、なにかと出あい続けることが必要だと思う。
ひとたび生まれて送り出されたなにかしらの作品かもしれないし、一緒に経年変化していくほかの誰かかもわからない。どんな存在とでも、価値をもたらし合える存在でいたいと思う。そんなことを思って、焦ったりやきもきしたりせずとも、誰もが自然に価値をもたらし合える存在であるというのをここでの論旨としたいのだけれど、それでも無駄に不安がったりやきもきしたりする自分をやめられないでいる。やめられてもやめられなくても、自分の存在する価値が失われることはないからこそ、やめられないのかもしれない。
つまりは、不安がるのも焦るのもやきもきするのも、好きでやっているつもりはないようでいて、実は自分でそうしたくてしている(あるいは必要性を感じてやっている)ことなのかもしれない。
どうぞ、そのままの自分でいてください。僕よ、あなたよ。
読んでくださり、ありがとうございます。
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