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ダンスと見えないこと* 〜制作者へのインタビューを通して、「障害のある人とのワークショップ」を振り返る〜

ダンサー伴戸千雅子が障害のある人とのダンスワークショップをする中で感じた、様々なモヤモヤを、ワークショップ企画者五島智子さんへのインタビューを通して振り返ります。

ダンスはからだでおしゃべりすること

私は舞踏ダンサー/振付家で、ダンス作品を創作・上演したり、舞台で踊ったりしている。その一方で、ダンスワークショップのナビゲーターもやる。ダンスワークショップと言っても、ほとんどの場合、対象はダンサーではない。「ダンスなんてやったことない」という人や、「ヒップホップ教室、通ってるねん!」という子どもたち、視覚、知的、精神などさまざまな障害のある人。やっていることも、一般的なダンスのイメージから遠いらしく、「これはダンスですか?」と首をかしげられることも多い。
「私にとってはダンスです。…でも、まあ、なんでもいいんですけど」と語尾はあいまいになる。参加者の保護者に「こういう活動のこと、他の人にも教えたいのですが、説明が難しいんです。なんか言い方ありませんか」と言われて、「からだで表現とか?」「非言語コミュニーケーションを楽しむとか?」「表現を受け止め合うとか?」と聞いたような言葉をひねり出すが、結局、伝わりにくいらしい。

私にとってのダンスは、カラダでおしゃべりするようなこと、と思っている。だから、バレエやヒップホップみたいな話し方もあるだろうし、そういう文法を介さない話し方もある。その人特有というのか、家族や社会との関わりの中で生み出されてきたというのか。私は、そういう文法を介さない、カラダのおしゃべりが好きだ。
舞台上で観客に向けてなされるのも「表現」だが、ワークショップの中で、ぼんやり立っているのも「表現」。私が参加者に「手を伸ばしてみましょう」と言ったとする。その言葉に対して、手を伸ばす人もいれば、伸ばさない人もいる。どちらも表現だと、私は思っている。それが私にとっては、面白いおしゃべりの始まりなのだが、立場が違うと、捉え方は異なるだろう。

ワークショップへの想いはそれぞれ

ワークショップにはいろんな人が関わっている。ナビゲーターや参加者の他に、例えば、企画をした人、ワークショップに入って進行をサポートする人、活動のための場所や資金を支援する人。それぞれの立場から、ワークショップに対していろんな想いを持っている。子どもや障害のある人がワークショップ参加者である場合、家族や施設スタッフの想いも入るのかもしれない。
例えば、私の「手を伸ばしてみましょう」という声かけに対して、手を伸ばさない人がいれば、「ナビゲーターが手を伸ばそうと言っているのだから、伸ばさないのは、どうなのか?」という捉え方をする人もいるだろう。「手を伸ばすように声かけをしたら」とか「手が無理なら、指でやったらどうか」などと言う人もいるかもしれない。というか、そういう声はよく出てくる。
そういう時、私は、出てきた声になるべく応えようと、いろんなことを試みてきた。そして、ワケがわからなくなったりもした。なぜなら、参加者に手を伸ばさせることが目的ではなかったから。「手を伸ばしてみましょう」はおしゃべりのきっかけだ。そのことをわかっていても、私は声に応え、ワケがわからなくなる、を何度も繰り返してきた。
なぜか。ワークショップのナビゲーターは私でも、いろんな人の想いがあって実現した場だ。そう思うと、私は出てきた声を無視する気にはなれなかった。手を伸ばさないのも表現という考え方を、なかなか受け入れられない人もいる。だから、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながら、折り合いがつけられるところを探した。

なぜ振り返ろうと思ったか

ワークショップで、障害のある人とダンスをしていると、平凡な言い方かもしれないが、驚きや発見がたくさんある。身体や感覚、言葉の使い方。違いに触れることで、自分の中の、思いもよらなかった価値観に気づくこともあった。いつ、どこで手に入れたのかわからないような差別意識に気づくこともあった。社会の中で生きる以上、いろんなことに無関係ではいられない。影響を受けているのだ。だから、ワークショップでは、場にあるカラダに真摯に向き合い、そこでうまれてくるものを大切にしようと思った。
本当を言うと、障害のある人とワークショップを始めた頃は、ナビゲーターの私が「手を伸ばしましょう」と言えば、みんなが手を伸ばすのは「当たり前」だと、私は思っていたのだろう。その証拠に、手を伸ばさない人を見た時、軽くショックだった。いろんな人がいると頭で理解することと、実際、カラダで向き合うことの間には差がある。自分のカラダの中に、無意識のうちに根付いている感覚みたいなものに出会って、ハッとするのだ。
手を伸ばさないのも表現だと思うようになったのは、そう思わせてくれた人たちがいたからだ。そのことは、私のダンス表現に、そして生き方に大きな影響を与えたと思う。
だから、いつか障害のある人とのダンス体験を文章にまとめたいと思っていた。どんな出会いがあって、試みがあって、出来事があって…。私の体験が、誰かの行動のきっかけになるかもしれないし、なにかの役に立つかもしれない。コロナ禍は今までの活動を考えるきっかけとなり、文章にまとめるなら今だと思い立った。

見えないことを見るために

そういうキラキラした想いを持って、昔のワークショップの記録映像を見て、自分がやったプログラムや感想などを収集した。でも、それだけでは、自分が体験したことと離れてしまうような気がした。プログラムや参加者の反応を集める振り返り方もある。でも、私がやりたかったのは、そういうことではない気がしたのだ。その時、感じたけれど、言葉にならなかったこと、整理できずに頭のすみに追いやってきたこと、見えなかったことがあったから、私はずっと心残りで、振り返りたいと思ってきたのだ。時間が経った今なら、見えなかったことが、少し見えてくるかもしれない。その時とは、違う感じ方ができるかもしれない。
「障害のある人とワークショップをしている」。私は、この言葉を書いたり言ったりする度、モヤモヤした気持ちになる。特別なことをしているような響きがないだろうか。では、「障害のある人と」という言葉を付け加えずに、単にワークショップと言えばいいと言われたら、こぼれるものがある気がする。「障害のある人と」やってきたからこそ、気づけたことがたくさんある。その意味で、私にとって彼らとの体験は特別だ。特別なことをしていると人に思われたくないが、自分にとって特別。自分で書いていて、モヤモヤして、訳がわからなくなってくる。
でも、私はモヤモヤするのを、もう止めたい。簡単に止められないかもしれないけど、少しは整理をつけないと、根本にあるダンスの楽しさをいつまでたっても伝えられない気がする。

なぜ五島さんにインタビューしようと思ったのか? 

さて、「感じたけれど言葉にならなかったこと、整理できずに頭のすみに追いやってきたこと」を振り返るには、私以外の人の視点が必要だと考えた。しかも、その場を共有していた人。五島智子さんが頭に浮かんだ。
五島智子さんは、“人とダンスの縁結び”をモットーに、ワークショップなどを企画運営するDance&Peopleの代表。かつては舞踏集団白虎社の舞踏手でもあった。介助者対象ワークショップ「介護はダンスだ?!」、障害や年代、ダンス経験の異なる人たちが集う「からだをつかってあそぼ」などの制作にたずさわっている。そして、2004年から約5年間にわたって、視覚障害のある人とのダンスワークショップや公演の企画や制作を、Dance&Peopleが実行委員会を作り担っていた。
私はその企画で、ナビゲーターや振付をした。初めての体験だらけで、アタフタ走っていた5年間。五島さんも一緒に走っていた。ワークショップ、公演のリハーサルで、彼女はいつも部屋の端にいた。私は、ワークショップ参加者を見ていた。五島さんは、私と参加者を見ていた。そんな彼女の言葉と、私の振り返りを重ねることで、言葉にしづらかったことが浮かんでくると考えた。

なぜ五島さんに注目したのか?

ワークショップやリハーサル中、五島さんは大抵、部屋の端で、ノートにメモをしている。記録だそうだが、読み返すのが大変な走り書き。ビデオの記録も必ず撮る。でも、ワークショップ後、スタッフ間でミーティングをしても、五島さんはあまり目立った発言はしない。どちらかというと、みんなの話を聞く姿が印象に残る。発言する時は、誰も気づかなかったような参加者の反応について語ることが多い。いいもの見つけた!という感じで、うれしそうに話す。そして、印象に残ったことを繰り返し話す。
視覚障害のある人とのワークショップに戸惑っていた時、「参加者の反応を拾って、教えてあげたらいいと思うよ」と言ってくれたことがある。その通りにやってみたら、場が活性化した。今も、いろんなワークショップでやっていることの一つだ。参加者の反応を純粋(判断を含まない)な目線で見ること。そうすると場の見え方が変わった。
今まで、ちゃんと考えたことがなかったが、五島さんの態度や発言に私は影響を受けている。ちゃんと考えなかったのは、五島さんが制作で、私がダンサーだと区別していたからかもしれない。
「私は五島さんに育ててもらったようなものだ」と人に話したことがある。それは、五島さんが私に機会を与えてくれて、うるさいことも言わず、見守ってくれたからだと思っていた。何が失敗か成功かわからないが、失敗だと思ったワークショップもたくさんあるし、ナビゲーターに向いていないと何度も思った。
と言いながらも、私は「こんなことしたらどうだろう」「次はこうしてみたい」と提案し、五島さんは受け入れてくれた。逆に五島さんの提案に「面白いね、やろう!」と答えたことも。どちらが育てたということではなく、私は五島さんと共同作業をしてきたのだ。インタビューすることで、その関わりも改めて見えるのではないかと思った。

五島智子さんには、2020年12月から2021年1月に、3回(約2時間ずつ)にわたってインタビューをした。話があちこちに飛んだので、編集し、章立てした。


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