『超巨大旅客機エアバス380』杉浦一機著、平凡社新書、2008


はじめに

国際長距離便の機内に乗り込むと、乗客は思い思いに長旅に備えた用意を始める。客室乗務員に毛布や枕を頼んだり、スーツの上着を脱いでラフなカーディガンを羽織ったり、ローションを塗るなどさまざまだ。

離陸して三〇分も経つと、機内サービスが始まる。料理が温まるまでのつなぎを兼ねて食前酒がふるまわれ、乗客はツマミを片手に好きなワインやビールを味わう。心地よい酔いが身体を包み始めるころに機内食が配膳されて、工夫を凝らした料理を楽しむことになる。近年では機内食にも趣向が凝らされており、数種類のメニューから選択したり、健康や宗教を考慮した料理も提供される。

やがて賑やかな食事時間が終わり、機内が休息モードになると、各自が眠りの態勢に入る。多くの乗客は毛布をかけて眠りにつくが、なかには顔に紙製のパックを貼った白い仮面状態のご婦人もいて驚くことがある。機内の乾燥から肌を守るためだ。

昔と較べれば、航空旅行は格段に改善された。昔といってもどこまで遡るかが問題だが、ちなみに東京―大阪—福岡線に定期便が初めて就航した一九二九年(昭和四)の時刻表には、次のような注意書きが記されていた。

  • 服装は普通のままで結構です。

  • 長い区間にご搭乗の方は、弁当、サンドウィッチなどを予めご用意いただく方がよろしいと存じます。

  • 飛行機にはたいてい化粧室の設備がありますが、ないものもありますので、ご搭乗の前にご用を済ませておいてください。

  • 携帯手荷物はお一人につき一五キログラムまでは無料で、それ以上は超過料金をいただきます。手荷物があまり多い場合はお断りする場合がありますので、なるべくお手軽にお願いいたします。

機材には乗客六人または八人乗りのフォッカー機を使用し、東京―大阪間の飛行時間は三時間もかかった。運賃は三○円で、大阪―福岡は三五円(五時間)だったが、大学卒の初任給が五〇円という物価から考えるとべらぼうに高いものだった。乗客から高い運賃を取り、不自由な思いを強いるにもかかわらず、気象条件によってすぐ欠航したのだからひどいものだった。それでも、さらに遡った初期の飛行機では、飛行服に飛行帽、飛行メガネの着用が当たり前だったのだから、普段着で搭乗できるだけでも大変な改善だった。

さて、戦後に再開された国内航空に本格的に導入されたのは、大型機のダグラスDC-4(六九人乗り)で、東京―大阪間の飛行時間は一時間三○分(運賃は六○○○円)だった。四発エンジンの大型機だったが、与圧装置がなかったので、飛行中は寒いうえに揺れや耳鳴りにも苦しめられた。上空に上がると気圧の低下によって万年筆のインクが漏れ出し、ワイシャツを汚す乗客が後を絶たないため、離陸前にはビニールの小袋が配られた。

与圧が完備したのは一九六〇年に国内線に就航したバイカウント(ANA)とダグラスDC-6(JAL)からだ。乗客は機内でオーバーを脱いでくつろぎ、機内食として配られるサンドウィッチとコーヒーで空腹を満たせるようになった。

五〇年代末期から就航したダグラスDC-8やボーイング707などのジェット機はプロペラ機の二倍の速度で飛べるために所要時間を半減させ、トイレも水洗式になるなど快適性は向上したが、座席の狭さはいかんともしがたかった。ヨーロッパまで一日半かかる南回りの欧州線に乗るとインドあたりで我慢の限界が来るし、一七時間の北回りの快速便でもアンカレッジで休憩した後に、狭い座席に身体を押し込むのには苦労した。

DC-8は約三・五mの胴体径に横六列の座席が配置されていたので、一人の占有幅は五八㎝だったが、ジャンボ機が就航すると居住性は大幅に改善された。六・一mの胴体に九列(当初)で六七㎝と、スペースが二割ほど広がったためずいぶん楽になった。しかも、緩衝帯となる通路が二本あり、通路幅も一〇cmずつ広がった。

ところが、乗客が増えてくると、エアラインはジャンボ機の座席配置を横一列(六一㎝)に増やして詰め込んだのに加え、途中での寄港地を減らして無着陸飛行の時間を延ばした。欧州や米国東海岸までノンストップで飛ぶことで、途中の給油着陸のために睡眠途中で起こされることはなくなったが、今度は半日以上座席に縛られることによる障害(ロングフライト血栓症=エコノミークラス症候群など)に悩まされることになった。

エアラインは技術の発達で生まれた客室スペースのゆとりを座席数の拡大に振り向けて、運賃の引き下げに充ててきたのだ。その結果、長距離飛行での乗客は身を持て余すようになり、トイレに立つときに少しでも遠回りして通路を歩いたり、非常口前のわずかなスペースにたむろするようになった。しかし、通路を通る乗客が多くなって機内サービスに影響が出たり、非常口付近の乗客からは「落ち着かない」との苦情も寄せられている。


航空旅客の誰しもが考える夢は、速いスピードで飛びながらも、快適で、客船のようにゆったりとしたスペースに富む旅客機だ。そんな夢が総二階建てのエアバス380で叶いつつある。最初のエアバス380は二○○七年一〇月末にシンガポールーシドニー線に就航したが、○八年にはシンガポール―ロンドンや日本路線にもお目見えする予定で、新しい旅が始まる。

エアバス380とは一体どんな飛行機なのか。まずは本書の紙上飛行で乗り心地を確かめてみよう。

*本文中の為替レートは、直近の一米ドル一一〇円、一ユーロ一六三円、一ポンド二一九円を使用した。

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