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100万粒の光の塊を手に持つ現代

絵画という可能性

何万年も前から、人間が本能的に行ってきたであろう
絵を描くという行為は、
100万粒以上の光の塊を手に持つ現代に一体何の力があるのだろう。
何の意味を思って、巨大な砂漠に線を引き
洞窟の岩壁に色を落とすような行為を続けているのか、
僕は常々疑問に思う。

本来絵という物は、皆が思うような
”有難いもの”に該当するはずでは無かったはずで、
時代と主に、時代を記し、宗教と近く寄り添いあい、
Artistなる人たちが力を持ち、新たな表現を模索し続けた結果。
美術というのは金銭的に大きな価値を持ち、”有難いもの”になった。

その有難い美術(絵画)が今後この時代でどれほどの可能性を持っているのか
僕は絵を描く当事者ながら、絵画は本来持つべき大衆性を放棄した結果、
本来以上の金銭的価値を得てしまっているのではないかと疑うのだ。

イラストレーションという分野においても、現代に置いて
絵画は、漫画やアニメというカテゴリーに完全に敗北している。
と感じる。単純に、それらより娯楽性が薄いのである。
素晴らしい作家はもちろんたくさんいるが、そこに大衆の関心は無い。
と悔しいが当事者ながら思ってしまうのだ。

また事、娯楽においてはスマートフォンの普及により
さらに、映像、音楽、アニメーションに勝ち目を感じない。

それでも、絵描きというのは決して絶滅しない。
なぜなら最初に記したように、描くという行為は本能であり
それら娯楽とは、違いより生に近いところにあると僕は思うからだ。
絵画というのは、より作家本人の心臓と作品が近いところにあり。
生きるという行為においての苦悩や葛藤を写し出そうと必死になった形である。
それが時に、美しく、儚く、輝くのだと思う。

そう、本来絵画というのには知性も教養も必要なく
もっと本能的にかっこいいや、可愛い、綺麗と感じていい物だと思う。

キャンバスを祭り上げるのでは無く、もっと歓楽的に絵を見て欲しい
僕はそういう作品作り、魅せ方を突き詰めれば
絵画というのにも、100万粒以上の光の塊を手に持つ現代に
も魅せれる力があるのではないかと信じている。

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