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かみさまをいまゆらしてる

私は普段からカメラを持ち歩くようにはしているが、日常的に写真を撮るわけではない。むしろ撮らないことの方が多い。今日は撮るぞと意気込んで決めたとしても、結局は1枚も撮らないような日が何度もある。

しかし、ふとした時に「撮らなければ」と強く思う瞬間が訪れる。それは風景であったり人々であったり物体であったり様々なのだけれど、まるで神様の御告げのようにその時は突然降りかかり、その刹那に私はシャッターを切る。

瞬間の衝動を切り取ることは覚悟がいる上に失敗が多い。とてつもなくしんどいけれど、その1枚に納められた確かな存在や価値を心から愛おしく思う。

私が写真で表現したいことは何だろうか。
多分、誰が見ても美しいと思えるものにはそこまで興味がなくて、勿論そういったものを撮りたい時もあるのだけれど、どちらかといえば私は、人から見向きもされないものや見過ごされるものを撮りたくなる。

それは、私がよく孤独感に苛まれるからだと思う。
“つながり”というハサミ1本で切れてしまいそうな糸をたぐり寄せる怖さを、恐らく人よりも強く感じてしまう。私は誰からも見向きもされない存在なのだと思ったりもする。
けれど本当は“つながり”を誰よりも欲している。

私が“つながり”を求める時、神様は気まぐれに起き、私に「撮れ」と告げる。そして私は、過ぎ去っていく人々を撮ったり、誰からも見向きもされず、見過ごされるもの達にカメラを向けたりする。そうすることによって、私のことも誰かが見ていてくれているような気になるからだ。人間の生活にある孤独や寂寥を、私は優しく表現したい。

そして、それが誰かの心に何かを訴えるのであれば私は嬉しい。願わくば肯定的な感情だけではなく、苦しさや寂しさも存分に感じて欲しいと思う。


 私が写真を撮る時は、決して楽しい時ばかりでは無いのだから。


ここ数年、そんな様々な思いで撮ったフィルム写真をこの1冊の本にまとめた。いくつかのカメラ、何種類かのフィルムで撮ったため、画質も色味もバラバラだがそれも面白いと思う。その時、その瞬間の私の全てが1枚1枚に込められている。

 この先に例え苦しい日々が続いても、その時の感情をまたカメラに込め、私は写真を撮り続けると思う。

 私の中のどこかにいる神様のことは、私自身で揺らし、私自身で起こしたい。

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