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クーベルタンの思想を2冊の本から読み解く(上)

近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタン男爵が残した書物を日本語で読めるのは、現在2冊しかない。一つは1962年に発刊された『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』(カール・ディーム編、大島鎌吉訳)だ。もう一つは2021年に改めて翻訳された『ピエール・ド・クーベルタン オリンピック回想録』(日本オリンピック・アカデミー監修、伊藤敬訳)である。クーベルタンの故郷、パリで開かれる五輪に合わせ、この2冊から五輪のあるべき姿とは何かを探ってみたいと思う。


パブリック・スクールに感銘を受け

クーベルタンは1863年、パリの7区にあったフランス貴族の家に生まれ、幼年期はイエズス会系の学校に通った。1880年からは陸軍士官学校に入学するが、わずか数カ月で退学。自分はどう生きるべきか悩んだクーベルタンは、英国へ渡る。そこでスポーツと出合い、オリンピックの構想を思いつく。

当時のフランスはプロイセンとの普仏戦争に敗れ、荒廃していた。国民は沈滞ムードに包まれ、若者は将来への希望を持てずにいた。そんな時代のことだ。一方の英国は海外に植民地を広げ、隆盛を誇っていた。

クーベルタンが英国で視察したのは、エリートを養成する全寮制の私立学校、いわゆるパブリック・スクールだった。その一つ、ラグビー校では、中世からの粗野なフットボールに独自のルールを加えた「ラグビー」が考案された。このことに象徴されるように、英国の若者は自らがルールを作り、そのルールを忠実に守ってプレーし、相手を尊重する精神を備えていた。

いくつもの学校を回り、英国人のスポーツに対する姿勢に感銘を受けたクーベルタンは、フランスにもこのようなスポーツによる教育を採り入れるべきだと考えた。青少年の教育が社会を立て直し、やがて世界の人々を結びつけると思い至ったのだ。

当時、ギリシャのオリンピアでは、遺跡の発掘が行われていた。土の中に眠った古代オリンピックの遺跡である。クーベルタンの理想が古代とつながり、オリンピック復興へとつながっていく。国際オリンピック委員会(IOC)は1894年、パリで産声を上げ、その2年後、第1回五輪がアテネで開かれた。

人生で最も重要なことは……

大島訳の「回想」の冒頭には、クーベルタンの有名な言葉が記されている。

「人生で最も重要なことは、勝つことでなくて戦うことである。本質的には“勝ったこと”ではなくて、けなげに戦ったことである。この規範の及ぼすところ、人間をより勇敢により強健にし、その上より気高くより優雅なものにする」

『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』より

「オリンピックは参加することに意義がある」がクーベルタンの言葉だと思われがちだが、正確ではない。この話は、1908年ロンドン五輪のある出来事に由来している。

英国と米国がライバル意識をむき出しに競り合っていた。陸上競技や当時正式競技だった綱引きで、絶え間なくトラブルが起きた。収拾がつかないほどの対立が表面化して大会は険悪なムードに包まれた。


ピエール・ド・クーベルタン=「Wikimedia Commons」より

大会中の日曜日、セントポール寺院で各国選手団を集めてミサが行われた。その場でエチェルバート・タルボット主教は「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したということであろう」と説教し、英国と米国の選手のいさかいを収めるよう、諭したのだった。

IOCの会長、クーベルタンもこれを聞いていた。クーベルタンはその5日後に開かれた英国政府主催のレセプションで「主教が、重要なのは勝つことではなく、参加することである、と述べられたのは誠に至言である」と紹介した。それがいつの間にか、クーベルタンの言葉として伝わったとみられている。

ただ、クーベルタンはその紹介に続けて、上述の「人生で最も重要なことは……」という一節を口にしたという。日本オリンピック委員会監修の『近代オリンピック100年の歩み』には、「“クーベルタンの言葉”として一般に知られるようになり、“オリンピックの理想”とも呼ばれるようになった。しかし正式には、主教とクーベルタンの合作といった方が適切かもしれない」と評されている。

商取引の場か、それとも神殿か!

クーベルタンの理想に共鳴した中に、ドイツのスポーツ哲学者、カール・ディームがいる。1936年ベルリン五輪で事務総長を務め、聖火リレーを考案した人物であり、戦後はケルン・スポーツ大学の設立にも携わった。そして何より、クーベルタンの回想をフランス語からドイツ語で翻訳したのはディームでもある。

さらに、ディームの翻訳を、大島が日本語に訳した。大島は1932年のロサンゼルス五輪、陸上三段跳びの銅メダリストであり、その大会中に選手村の娯楽室に掲げられたクーベルタンの言葉を目にして、五輪が求める理想の高さに感心したという。4年後のベルリン五輪では日本選手団の旗手も務めた大島はその後、毎日新聞のベルリン特派員となるなど、ドイツ語にもたけていた。

同書では、もう一つ、印象に残るクーベルタンの言葉が残されている。1925年、IOC会長を退くにあたり、ハンガリー・プラハでのIOC総会で行ったスピーチとみられる一節だ。

「商取引の場か、それとも神殿か! スポーツマンがそれを選ぶべきである。あなた方はふたつを望むことはできない。あなた方は自分でその一つを選ばなくてはならない。スポーツマンがそれを選ぶ!」

『ピエール・ド・クーベルタン オリンピックの回想』より

クーベルタンは、のちの五輪が肥大化の道を突き進み、商業主義にとらわれてスポーツの純粋性が損なわれていくのを予見していたのだろう。3年前の東京五輪でのスポンサー選びをめぐる不正に象徴されるように、スポーツマンは「商取引」を選んだといっていい。「神殿」は看板に掲げるだけで、世界平和の理想はうわべだけになってしまったのではないか。

(次回投稿で新しい訳書『オリンピック回想録』を取り上げます)


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