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日本人初の五輪参加はアイヌ男性だった

日本選手団の壮行会も終わり、パリ・オリンピックの開幕がいよいよ近づいてきた。ところで、日本の五輪史を振り返ると、気になる話がある。日本人として初めて五輪に参加したのは、金栗四三(マラソン)と、三島弥彦(陸上中短距離)だとされているが、本当にそう言い切っていいのか、という問題だ。2人は大日本体育協会から派遣され、1912年ストックホルム五輪に出場した。しかし、それ以前に五輪の舞台に招かれた人たちがいる。北海道に古くから根を張って暮らしてきたアイヌ民族だ。


1904年セントルイス五輪に招かれ

金栗と三島の2人がスウェーデンで開かれたストックホルム五輪に出場した模様は、NHKの大河ドラマ「いだでん」でも詳しく描かれた。柔道の創始者である嘉納治五郎が会長となって大日本体育協会が設立され、現在の日本オリンピック委員会(JOC)と同じ五輪への派遣団体となったのである。

ところが、それより8年前の1904年、米国・セントルイスで開催された大会にアイヌの男性たちが招かれたという記録が残っている。アイヌは北海道の先住民族であり、日本国籍を持っていた。

1952年に発刊された『オリンピック史』(鈴木良徳、川本信正著)には、「はじめの出場者はアイヌ人」と題され、以下のような文章が記されている。

「すこしでもオリンピックについて知っている人であれば、日本人でオリンピックにはじめて参加したのは三島弥彦、金栗四三の二人の選手というであろう。(略)ところがオリンピックに参加したはじめの日本人はというと、氏名のほどはわからないが、数人のアイヌ人なのである」

『オリンピック史』より

その後の調査により、その名前や出場競技もおおよそ明らかになっている。先住民族の研究をする恵泉女学園大学名誉教授、上村英明氏の著書『新・先住民族の「近代史」』(法律文化社)によれば、コウトウロケ、ゴロー、オーサワ、サンゲアという名前の4人が競技に参加し、その記録も残っているという。

参加を要請したのは米シカゴ大学の人類学者だった。日本へ向かい、アイヌの言葉を話せる北海道在住の英国人宣教師を通じてアイヌの人々に接触。最終的には北海道長官の許可も得て、彼らを連れて船でセントルイスへ向かった。

出場したのは「人類学の日」

近代オリンピックは1896年にアテネで始まり、セントルイスは第3回大会だった。欧州以外では初めての開催で、風変わりな大会だったといわれる。大会中に「アンソロポロジー・デイ(人類学の日)」という競技の日があり、世界から集められた先住民族のみで争われた。大会の正式競技ではなく、公開競技のような扱いで8月12、13日の2日間にわたって実施されたとみられている。

アイヌ以外では、メキシコのココパ民族、南米のパタゴニア人、米国のスー民族、カナダのクワキュートル民族、フィリピンのモロ民族、アフリカのピグミー民族などが参加した。

アイヌの選手が上位に入った競技もある。アーチェリーではサンゲアが2位、やり投げではコウトウロケが3位に入った。今でいえば、メダリストと位置付けられる活躍だ。他にも野球のボール投げや走り幅跳びにアイヌの選手が出場したという。


アーチェリーに出場したアイヌ男性。2位になったサンゲアとみられる
=「Wikimedia Commons」より

そもそも、なぜこのような日が設けられたのだろうか。セントルイス五輪は、第2回大会のパリ五輪と同様、博覧会の一部として開催された。セントルイスがルイジアナを購入して100年にあたることを記念した博覧会で、西欧文明の進歩をアピールする狙いもあった。一方、その対比として、近代的な発展をしていない地域の民族による競技を実施したとみられている。

落胆し、渡米しなかったクーベルタン

国際オリンピック委員会(IOC)を創設したフランス貴族、ピエール・ド・クーベルタンは、セントルイスの計画に失望し、アメリカには行かなかった。前回の1900年パリ五輪が万国博覧会の付属として実施されたことに不満を持っており、セントルイス五輪も博覧会の一部となったことに落胆したという。


セントルイス五輪のポスター=「Wikimedia Commons」より

上村氏の著書によれば、クーベルタンは「人類学の日」も「けしからん茶番劇」と評していた。ただ、先住民族を見せもののように扱うことへの批判ではなかった。先住民族たちが「走ること、跳ぶこと、投げることを学び、白人を追い越してしまうときがくれば、もちろんオリンピックはその魅力を失うことになるだろう」と主張したとされる。

現在、オリンピック憲章は人種や民族、宗教、国籍、出自、性的指向など、あらゆる差別を禁じているが、近代オリンピックが創設された当初は差別感情が根強く、第1回のアテネ五輪では女性の参加も認められなかった。クーベルタンはスポーツの教育的価値に着目して五輪を復興させたが、差別を根絶しようという意識は低かったと思われる。

JOCも歴史を見直す時では

日本オリンピック委員会(JOC)が監修する『近代オリンピック100年の歩み』でも、セントルイス五輪に関して、人類学の日やアイヌ民族の参加は短く触れられているに過ぎない。またアイヌ男性4人の参加は、日本選手の出場人数やメダリスト数にもカウントされていない。

だが、3年前の東京五輪では、サッカーの女子選手たちが人種差別を抗議する膝突きポーズを行ったり、トランスジェンダーの選手が女子の重量挙げに出場したりしたように、差別をなくそうという意識が世界的に高まっている。国内でも北海道白老町にアイヌの歴史や生活を紹介する民族共生象徴空間「ウポポイ」が開設され、日本人の成り立ちに理解が深まりつつある。

確かにアイヌ男性たちの参加は、正式競技ではなく、大日本体育協会による派遣でもなかった。しかし、JOCは改めてアイヌの人たちが五輪を参加したという足跡に目を向け、日本の五輪史にその名を刻むべきではないか。

(画像はすべて「Wikimedia Commoms」より)

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