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【自己紹介】スポーツメディアにまとわりつく「邪念」を振りほどいて

はじめまして。スポーツ記者を長く続けてきました。メディアの世界に入って30年以上がたつのですが、最近、モヤモヤした気持ちが日増しに高まり、まずはペンネームでスポーツへの思いを綴ろうという心境に至りました。

モヤモヤの原因は、スポーツジャーナリズムを取り巻く環境の変化にあります。近年、メディアの経営が悪化する中、同じ時代を生きた記者たちが次々と去っていきました。若い頃、仕事の手ほどきを受けた先輩の多くも鬼籍に入りました。

メディアの最前線は今、かつてテレビ局が視聴率争いに狂奔したように、ネットでのアクセス数稼ぎに追われています。注目を集めようとするあまり、虚実ないまぜの情報やスキャンダラスな記事が氾濫しているように思えます。そんな状況で世の中に訴えかける報道ができるのか。暗中模索です。

ペンネームは「番十兵衛」。「番」はジャーナリズムの重要な役割である「ウオッチドッグ(番犬)機能」からとりました。社会がおかしな方向へ行きそうになった時に吠えるのです。

「十兵衛」には少し説明が必要です。江戸時代の剣豪を主人公としてNHKで2005年に放送されたドラマ「柳生十兵衛 七番勝負」に由来します。第5回放送「邪の剣光の剣」にこんなくだりが出てきます。

将軍、徳川家光に仕えていた十兵衛(村上弘明)は、隠密剣士として諸国を巡り、反幕府の武士らと刀を交えます。しかし、政(まつりごと)のために人を斬る葛藤から、闘う意義を見いだせず、十兵衛は刀を抜くことを躊躇し始めます。そんな時、肥後の国で同じ剣豪として名高い宮本武蔵(千葉真一)と出会います。

武蔵は「わしは天下国家などに用はない。ただの修行の侍。剣に生きる者に雑念なし」と告げて、十兵衛にいきなり斬りかかります。しかし、武蔵の言葉を聞いて十兵衛は心の迷いが解け、とっさに刀が抜けるのです。

動きを止め、刀を鞘に収めた武蔵はこう語ります。

剣に邪念はいらん。剣のみに生きればよい。(略)剣に生きる者同士、まっすぐに剣のためにのみ刃(やいば)を交える。それが剣に生きる者、剣客だ。(略)だが、相手はどんな事情で立ち向かってくるか分からん。恨み、功名心、政もあろう。斬るおぬしがただ剣に生きるという信念で相手に立ち向かうならば、おぬしは一剣客だ。そこに政などは入らん

スポーツメディアにも「邪念」がまとわりついています。政治やビジネスの思惑が背後にうごめき、何のためのスポーツ報道か、目の前はぼやけています。新型コロナウイルス禍で賛否渦巻く中、開催された東京五輪・パラリンピックはその象徴でしょう。メディアの姿勢も揺れました。

十兵衛の刀が抜けたように、邪念を振りほどき、スポーツ界がおかしな方向へ行かぬよう、ジャーナリズムの本質に立ち返ってみたい。そんな気持ちです。よろしければ、ぜひご愛読ください。


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