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新しいものと過ぎ去るもの

両親が今日、2回目のコロナワクチンの摂取に病院へ行ってきたそうだ。稀に発熱などの副作用などが出て、ひどいものになれば命に関わるというから怖い。そんな怖さよりもコロナに罹るほうが恐ろしいとおもって皆んなワクチンを打つのだろう。

実際どれくらいの確率でコロナに感染して死んでしまうのかわからないけれど、とうぜんワクチン接種によって重篤な副作用に陥り、命を落としてしまう確率よりも低いことはないはずだから、進んで接種に行ったほうがいいのかもしれない。

けれど、さいきんの僕ときたら新しいものに対してなら、なんにでも疑いの目をまず向けてしまう。どれだけ人がいいと勧めても、どこかにいつも本当にそうか?と疑う自分を感じるのは悪い癖だともいえる。納得しなければ認めない頑固さは、僕がすっかりオヤジ気質になってしまった証拠だろう。

スマホにしたって使っている機能といえば、電話とLINEと天気予報を見るくらいで、あとは目覚ましとしてたまに使う程度だ。ゲームも何度か入れてみたけれど、家庭用ゲーム機やPCゲームには及ばないので、すぐに止めてしまう。

僕の友人はTV画面にスマホのゲーム画面を出力して遊んでいたけれど、そこまでするならなぜ持っているPS4で遊ばないのかと聞けば、PS4の電源を入れるのが億劫なのだそうだ。なるほど、たしかに僕にも思い当たるところがあったので納得しかけたけれど、TV画面にまで出力するのはやっぱりぴんとこない。

そう言えば、イスラエルでは敬虔なユダヤ教徒は、安息日になると一切電気もガスも使わないそうだ。もちろんスマホやPCも使わないわけだからなにをするのかと言うと、家族や親戚や友達などで集まって、一緒になって聖書を読んだり、食事を共にしたり、散歩を楽しんだりするそうだ。

そしてなにより僕の関心を引いたのは、安息日の直前に女性が白い服を着て、祈りを捧げつつ蝋燭に火を灯すことで安息日が始まるという厳かな儀式を彼らがすることだ。それを知ったとき、なんて素晴らしい慣習なのだろうと心から感心した。

それで思い出したのは、ある日の仕事から帰るときのことだ。信号待ちで停車したそばに小さな地蔵尊のお堂があって、そこをお婆さんがきれいに掃き清めていたのだ。きっと屡々来ているのだろう。生けてある花も瑞々しい。近くに自転車が停めてあるところを見ると、歩いてくるには億劫なところに住んでいるに違いない。

なんて篤い信仰心だろうかと、清々しい気分になった。これも一種の厳かな儀式だ。こういったことが習慣にできる人の心は、どこかにいつも清浄な場所があるものだ。理屈を超えた神聖な精神は、こういうところに宿るのだろう。

こういった人がこれからずっと少なくなる。僕にもそれができない。そうおもうと美しさに胸を打たれつつも、なんだか寂しさがこみ上げてきた。

ありがとう♥