反論できない人

昭和の小説家や評論家というと、なぜか「著作では強い主張を打ち出すのに、直接の議論は避ける人たち」というイメージがある。彼の評論や小説について面と向かって批判されると、反論することなく顔を真っ赤にしてうつむき、黙りこくってしまう。よく考えてみればそうではない、喧嘩っ早い人たちばかり思い浮かんでくるのだが、このイメージはどこから来たのだろう。もしかしたら、遠藤周作あたりが誰かのことをそう書いていて、その印象があまりに強く残ってしまっているのかもしれない。

ぼくは物書きでもなんでもないけれど、まさしく「批判されると顔を真っ赤にして、黙りこくってしまう」というタイプの人間だ。ブログでは大きい顔してキリスト教だの文学だの論じてはいるが、実際に意見されると狼狽えてしまう。批判されているうちに「うーん、その通りかも」なんて思えてきて、弱気になってくる。その恥ずかしさから顔を赤くして、うつむいてしまう。

あるいは、的外れな批判を浴びせられると怒りが込み上げてきて、やっぱり顔が真っ赤になる。そのうち「こいつ、人の話も聞かずによくもここまで言ってくれるな」と憎らしさで心がいっぱいになって、どんな反論をすべきか分からなくなってくる。でもそこから相手を罵倒することの恥ずかしさを覚えるくらいの気持はどこかで残っていて、結局真っ赤な顔のまま口をつぐんでしまうのだ。

反論できない人というのは、どちらにしろ感情的になりやすいのである。普段、自分の主張をロジカルに組み立てることができるかどうかは関係ない。冷静に論理的に物事を考えられるとしても、生身の人間を相手にすると途端に感情に支配されてしまう。これもコミュ障というやつの一種なのだろう。

このクセを何とかしたいとは思いつつ、克服法としてディベートの練習など試みてみるも、あまり効果的ではなかった。考えてみたら、学生時分に学会で発表などしていたころは、質疑応答はいかに長くなろうとしっかりできていた。ディベート訓練というのはまさしく議論が目的となっているのであって、その目的がある限り冷静さを保つことができるのである。だが、友人と、先輩と、飲み屋で一緒になったおっさんと、人との交流の場で議論が展開されてしまうと、スイッチが切り換えられず途端にどもりはじめてしまうのは直らなかった。

最近は、そういう咄嗟の議論がうまくできるようになろうとは思わなくなった。少々自分本位だが、相手がぼくを論破したと思うならそれでいいし、その後で意見を思い直したとしても、それはそれで構やしないさ。自分はむしろ議論ができるようになるよりも、コミュニケーションの中における自分の狼狽と怒りをコントロールできるようになりたいのだと思うようになった。

そういう自分本位な理由ではあったけれども、まず心がけるようにしているのは、批判されたときに自分を横において相手の話だけに耳を傾けるということだ。というのも、仮に議論をするにしても、まずは相手の主張を理解しなければ始まらない。そして相手の主張を理解する上では、相手が持っている前提条件がわからなければ始まらない。そうしないと、議論の場はただボタンを掛け違え続けるだけで荒れ果てていってしまう。相手の持っている前提と主張をしっかり知るには、なるべく自分の判断を挟まず、相手の話に耳を傾けなければダメだ。(さきほどディベート訓練は効果的でなかったと書いたが、そういうロジック面から自分をコントロールする方法を考えるには、大いに役に立っているなぁ。)

反論できるようになろう、意見を言えるようになろうという思いを脇に置き、まず相手の話を聞くようにしようと心がけ始めてからというものの、相変わらず議論になるとだんまりしてしまうのは変わっていないけれど、相手に意見されている間中ずっと怒りや惨めさに支配されるようなことはなくなってきた。

そして、何とか相手の主張を理解しょうと努めていると、自分が分からないことが分かってくる。それが分かってくれば、自ずと質問が出てくる。あとはその質問の態度にさえ気をつければ、相手からさらなる情報が引き出せる。情報を引き出して理解を深めていけば、自ずと大切なことがわかってくる。自分が間違っていたことに気づくこともできるし、自分の主張自体は間違っているとは思えないけれど、相手の前提に立てば間違っていることになってしまうとも思えてくる。……後者の場合、そのあとで話をどう持っていくのかには、随分苦労するのだけれども。

なんのことはない、よくある当たり前の話である。でもそんな当たり前のことだって、自分が惨めさや怒りに満たされている間は忘れてしまうものでしょう。だからこうして独り言として書き出すことで、いつも忘れないようにしようと心がけているわけだ。

ただ相手の話を聞いている最中、相手だけに神経を集中させるのも難しい。いざ自分は黙っててもいいから相手の話を聞いてみようと思い始めると、途端に議論のことなどどうでもよくなって、別のことに神経が集中し始めてしまう。相手の前髪がずれて、変な髪形になってるな、とか。しゃべってる最中、何かずっといじってるな、とか。意外と歯並び悪いんだな、とか……。揚げ句の果てに、相手に神経を集中させることに疲れてくると、頭に浮かんでくるのは相手の話などではなく、コーヒー豆切らしてたなとか、帰りにお金下ろさなくちゃなとか、そういうことばかりになってくる。

そうこうしている内に、不誠実な態度が相手にも伝わり、議論など関係なく叱られてしまう。結局ぼくは己が情けなくなって、顔を真っ赤にしてうつむいてしまうのである。ああ、あの小説家やあの評論家みたいに、茶の席でも酒の席でも雄弁に反論できたらいいのになぁ。反論できない人々からは、まだしばらく抜け出せそうにない。