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新聞が読めるようになるニュース解説#9ハンセン病ー見学クルーズに参加して④隔離政策を伝える遺構

 こんにちは、あひる編集長です。岡山県にあるハンセン病の国立療養所・長島愛生園で行われた、ハンセン病に対する理解を深める「見学クルーズ」の記事。最後となる4回目は、愛生園にある隔離政策の様子を今に伝える遺構の数々をご紹介します。

 これまでの記事はこちら、更新ペースが遅く、申し訳ありません。

収容桟橋~社会、家族との別れの場

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 海の中に落ちてしまったコンクリート製の橋桁が、長い年月の経過を物語っています。

 これは「収容桟橋」の跡。全国各地から愛生園に連れてこられたハンセン病患者は、その多くがこの桟橋から上陸していました。

 患者たちはまず、自宅の最寄り駅から列車で岡山まで連れてこられました。患者を乗せた病客車は、皮肉を込めて「お召し列車」と呼ばれていました。病客車は徹底して消毒され、当時の国民の恐怖心をあおり、根強い差別意識を植え付けてしまったのです。

 岡山からはトラックで愛生園対岸の虫明(むしあげ)地区まで搬送されました。列車からトラックへの乗り換えは、人目の付かない深夜に行われていたとのこと。そして、虫明からは船に乗せられ、この収容桟橋から上陸していました。

 搬送には、患者の家族が付き添うこともありましたが、入ることができるのはこの桟橋まで。入所者にとっては、ここが社会や家族との別れの場でした。幼い患者の中には、親から「旅行に行こう」と言われて収容された人も。この橋で親兄弟とのつながりを断たれ、中にはだまされたと親を恨み続ける人もいました。

 桟橋が収容に使われなくなってからは、船の係留場所になっていたそうですが、平成に入って老朽化のために崩れてしまいました。誤った隔離政策を象徴する遺構だけに、保存が叫ばれていますが、復元したうえで保存をするのか、それとも今の状態のまま後世に伝えていくのか、方法を巡って意見が分かれているということでした。

回春寮~消毒風呂と大広間

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 入所するとまず収容されたのが、この「回春寮」と言われる建物です。当時の様子をよく残している外観です。

 患者はここで、所有物をすべて差し出さなくてはなりませんでした。そしてそれらは容赦なく消毒されました。

 食べ物は完全に没収。ラジオなどの電化製品も消毒に掛けられたため、手元に戻っても壊れて使い物になりませんでした。戦後すぐぐらいまでは現金も取り上げられ、園内のみで通用する硬貨に換えられました。社会で使える国内通貨を手元に持たせないことで、逃亡できなくする狙いがありました。

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 これは回春寮の中にある消毒風呂の跡。クレゾールに満たされた風呂の中に、患者たちは否応なく入れられ、消毒されていきました。

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 そして、患者たちは寮内の大広間のベッドに寝かされ、そこで1週間ほど滞在させられました。その間に、園での生活の場となる入寮先を決められていました。

監房跡~逃亡者を収監、園長が懲戒権

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 園内には、牢獄にあたる監房もありました。さきほどの収容桟橋から小さな入り江を隔てた場所に建てられており、愛生園に連れてこられた患者を無言で威圧していました。

 監房に入れられた入所者の中で一番多かったのが、やはり逃亡を図った人。1週間から10日の間、無機質のコンクリートで囲まれた独房に入れられ、1日3食の食事も2食に減らされました。逃亡の他にも、密造酒の製造、花札などの賭博、暴力沙汰で入れられる人がいたということです。

 入所者の収監について決定権を握っていたのは、園長でした。園内では懲戒権が与えられ、園長の一存で投獄ができていました。

 監房は戦後も使われ、1953年に廃止されました。道路の建設などで大部分は土砂に埋められており、いまは土砂の重みでたわんだ壁のみを残しています。

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 監房があった当時の写真です。現地の案内板より。

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現在の監房跡を上から見た写真。土砂に埋もれています。

納骨堂~死してなお故郷に帰れず

 ハンセン病に対する偏見や差別の目は、入所者のみならず家族にまで及びました。そのため、かつては入所者が亡くなった際、遺族が遺骨を引き取ることも難しかったのです。亡くなってなお、故郷に帰ることがかなわない人も大勢いました。

 この納骨堂には、そういった境遇の入所者の遺骨が納められています。

 現在納められている遺骨は約3700柱。そして、その実に半数は、本名ではなく園内での通名で眠っています。家族が差別を受けるので故郷へ帰れないばかりか、死んでもなお本名を名乗ることができないのです。

 現在の納骨堂は2002年に再建されたもので、初代の納骨堂は1934年に造られました。当時は火葬場も園内にあり、入所者の遺体を荼毘に付していました。現在は岡山市内の斎場を利用しているとのことです。

世界遺産登録を目指す動き

 これらの遺構を持つ長島愛生園をはじめ、同じ長島にある邑久光明園、高松市の離島・大島にある大島青松園の「瀬戸内三園」では、ハンセン病の療養所を世界遺産に登録する運動が繰り広げられています。偏見と差別を生み出した隔離政策を後世に正しく伝え、あまたの入所者たちの生きた証を残していくための運動です。

 「世界では過去、幾度となくスペイン風邪やコレラなどの感染症に見舞われてきたが、感染のピークが過ぎると忘れ去られてしまう。そのため、感染症に関する遺構は世界的に少ない。それだけに、療養所は感染症に対する差別などの過ちを学ぶことができる貴重な場」。ツアーのガイド役を務めて下さった学芸員さんが説明しておられました。

 現代の日本でも、新型コロナウイルスの感染拡大で、有形無形の差別や偏見が誘発されました。それだけに、過去の過ちから学ぶべきことは多いー。そう考えながら船に乗り、島を後にしました。

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