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選ぶことに畏れをもつこと

「人生は選択の連続です」とどこかの聖職者が言っていたのを、いまだに憶えている。世界の数だけ無限に選択肢は存在するけれども、ひとりの人の前に現われるそれは、時代や環境や状況や……そのときどきの様々なあれこれによって増減してしまう。
私たちは常に、何かを選びとり、何かを捨てていて、その積み重ねがあなたの毎日をつくり、社会の一年をつくり、生きものの一生をつくり、世界の歴史をつくってきた。生命はそうして進化してきたし、私たちの営みもまたその選択の行く先にある。
さてそれでは、本はどうやって選ばれたのだろう?

まず誰かが、書くことを選んだ。
何度も推敲を重ねて「書かれた」そのとき、本は過去を背負って生まれる。Twitterの「なう」ですら、厳密にはいつだって「わず」なのだから、まして何百ページ分にもなる文章には、それだけの時間の重みと選択の結果がある。
特に紙の本は著者だけではなく、編集や校正校閲、装丁や印刷まで、多くの人の手で選ばれ紡がれて、一冊の本になる。

選ぶことは誰もが行っていることだが、これほどまでに、多くの人が自由に物事を選べる時代は、かつてなかっただろう。しかし同時に、その選択は本当にあなたが選んだものなのか、見えづらい時代でもある。選択肢はあまりにも多く、知らぬうちに特定の思惑によって誘導されていることもある。
本は、他者の想いを自分ごととして擦り合わせることのできる、最も手軽なツールだ。紙の登場、グーテンベルク以降、そしてインターネットによって、ハードウェアとしての本はますます軽やかになったが、ときには人を貶め煽動するための武器として生み出されたこともある。しかし本屋としては、あらゆる世界の扉として本を捉えたい。出版という文化は、その扉を閉ざすために生まれたものでは決してない。

書くとき、編集されるとき、選書されるとき、選べば選ぶほど、偏りが生まれてしまうもので、もちろん数多ある本のなかから店頭における数は限られているし、ましてや人が一生のうちに読める本の数はもっと限られている。
しかしそれだけの選択の果てに一冊の本が生まれてきたのもまた事実だし、選択肢を提示することで見えてくるものもある。そして限りがあるからこそ、その本を自分自身で選んで読んだという体験は、かけがえのないものになる。
本屋は、本にこめられた想いを、読者へとつなぐ最後の橋渡しを担う立場だからこそ、選ぶことに畏れをもつ。それが本屋としての矜持だ。

本との出会いは常に偶然でありながら、本を読んだ人のなかに物語が生みだされたとき、その出会いは必然になる。
だからこそ、私たちは本を選ぶ。まだ見ぬ未来の物語を紡ぎ続けるために。

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