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ヤクザと過激派の全面衝突・埋もれた抗争「山谷現地闘争」

「ヤクザと過激派が棲む街」牧村康正著・講談社2020年11月発行

著者は1953年生まれ、竹書房入社、漫画、実話誌編集者として山口組等裏社会を20年にわたり取材、同社代表取締役社長を経て、現在フリージャーナリスト。「ごじゃの一分・竹中武・最後の任侠ヤクザ」の著書がある。

本書は、1970年代初め、成田三里塚闘争から派生した新左翼過激派が指導した「現場闘争委員会」と山谷寄せ場の労働者手配師を仕切っていた日本国粋会系ヤクザ「金町一家」との間で、山谷日雇い労働者を巻き込み、1987年まで20年以上続いた山谷暴動、寄せ場抗争のノンフクションである。

ヤクザは手配師からの違法手数料収入で暴力団組織を維持する。一方、ノンセクト過激派は自ら日雇い労働者となり、飯場の労働条件改善を目指して「流動的下層労働者」を指導、業者、手配師との団体交渉を実行する。ヤクザと過激派との対立は激化し、ヤクザ金町戦抗争の中で2名の死者が発生する。

「現場闘争委員会」のスタートは「黙って野たれ死ぬな」の著者・船本洲治が運動の指導者である。彼は、広島大学理学部在学中の1968年、三里塚闘争参加の帰途、山谷労働者の暴動を目撃する。山谷に住み込み、労働運動を開始した。

1972年には本拠地を釜ヶ崎に移し、地元ヤクザ「鈴木組闘争」を指導した。船本洲治は、皇太子沖縄訪問に抗議し、1975年5月25日沖縄嘉手納基地前で焼身自殺を実行した。29歳の若さだった。

船本洲治と山谷で共に活動した山岡強一は、山谷争議団を指導し、国粋会金町一家、傘下西戸組の右翼組織「皇誠会」との抗争を続ける。山谷争議団の活動には三菱重工業本社爆破事件・東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーで、1975年5月逮捕された黒川芳正、宇賀神寿一らも日雇い労働者として運動に参加していた。

1979年6月9日、山谷争議団メンバー磯江洋一が山谷マンモス交番の立ち番をしていた巡査を刺殺する事件が起きる。その頃、山谷争議団運動は低迷、中断していた時期で、磯江自身の突破的、個人的な事件とも言われる。

1984年、寄せ場の山谷争議団活動と金町一家の抗争「山谷・やられたらやりかえせ」のドキュメンタリー映画撮影が開始された。その映画監督・佐藤満夫が1984年12月22日、金町一家・西戸組の組員に刺殺される事件が起きる。刺殺された当日の夜、山谷では大規模な暴動が発生、車が焼かれ、多数の逮捕者が出た。

その後、映画撮影の継続に協力した山谷争議団リーダー・山岡強一が、新宿区大久保の自宅近くで金町一家・金竜組の組員に銃殺される事件が発生した。1986年1月13日の早朝である。即死であった。

二つの殺害事件で金町一家側の山谷での勝利は決定的となる。そして1991年3月、金町一家総長・工藤和義は日本国粋会の4代目会長に就任する。その後、国粋会は山口組の傘下に入り、山口組東京進出の先頭に立ち、銀座、新橋、六本木などに縄張りを広げる。

しかし国粋会の内部対立、住吉会との縄張り争いから工藤和義会長は山口組から会長引退を強要される。2007年2月15日、工藤和義は自宅で拳銃自殺を遂げる。70歳であった。

バブル崩壊後の景気低迷から日雇い労働の市場動向も変化した。山谷の寄せ場の活力も失われ、警察権力の締め付け強化もあって、国粋会金町一家は手配師、労働市場から手を引く。

現在、山谷は労働者高齢化と共に労働市場の活気は低下、「労働者の街」から生活保護「福祉の街」に変貌している。ドヤ街、簡易宿泊所も8割~9割がホテル、アパートに移行した。暴動、寄せ場の街・山谷の面影はなく、ヤクザと過激派抗争も一つの歴史となった。

ヤクザ暴力団、過激派も共に国家権力に押しつぶされた。善悪は別として、ヤクザ下級構成員、過激派山谷争議団も共に「流動的下層労働者」である本質は全く変わらない。

現在、マンモス交番巡査刺殺の磯江洋一は無期刑で旭川刑務所に、東アジア反日武装戦線の黒川芳正も無期刑で宮城刑務所に在監中である。一方、山岡強一銃殺した金竜組組員は懲役15年、佐藤満夫刺殺した西戸組組員は懲役13年の刑期を終了、出所した。

山谷争議団の運動は過激派党派性から一定の距離を置いたアナーキーなノンセクト新左翼による山谷に密着した労働運動である。そして反権力が故に、ヤクザ権力と真っ向から衝突した運動でもあった。

下記「山谷制作上映委員会」をクリックすると、映画「山谷」の上映予定が載っています。ご覧ください。


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