見出し画像

60歳の原点

最近よく「もう年だから……」という言葉を口にすることが多くなった。
私より10歳若い友と話をしていたら、毎回のようにこの言葉を私は言っているらしい。友からは、「年のことは言わないの!」と諭される。なにかで読んだのだが、「もう年だから」ということばは、できないことの言い訳にすぎないらしい。

昨年、定年を迎えた。その一年前から体力の衰えを感じだしていた。
定年が来る日を待ちわびていたのだが、その日が近くなると、更なる体力低下と認知症予防のため、もう少し働くことにした。もっとも、のんびり隠居して生活できる身分でもないので、元気なうちは働かなければという危機管理能力が働いたのだった。仕事は定年で、嘱託になり時間的余裕は正職員の一時間しか違わなかった。肝心の給料は半分になった。

50代半ばでは、今までできなかったことをしようと思い立ち、禁断の絵画教室に通いだした。絵画教室の先生の紹介で、ある人形作家と出会ったので、幼いころから人形好きの私は、さっそくレッスンをお願いした。還暦の年のことだった。これまた禁断の陶芸教室に身を置くことになった。なぜ、「禁断」かというと、幼いころに美的才能がないと親族から洗脳されていたからだ。

当時、千葉に住んでいた私の義理の伯父は、東京芸大出で、某有名画家の弟子だったことが自慢だった。東京に住んでいた従兄弟姉妹たちはみな、伯父の絵画教室に通っていた。小学校の夏休みに岡山から東京へ行った私を伯父は、独特の方法でもてなしてくれた。つまり、従兄弟姉妹たちをみんな引き連れて、上野動物園へ行き、「さあ、ここで絵を描きなさい」と。
絵を描くことはきらいではなかったのだが、できあがった私の絵を一瞥して
二コリともしないで、ましてことばもなく、クレヨンかクレパスで伯父は、さっさと線を入れ出した。それが妙に子ども心に寂しく悲しかったのを覚えいる。それから数か月後、その伯父のつれ合いの伯母が祖母と台所で、私の話をしているのを立ち聞きしてしまった。
「まあ、かなえは、絵の才能がない。うちのが言ってたわ」と。
体が硬直した。私は絵を描いてはいけないのだ。美術の才能がないのだ。
そう思った。そのことはその後数十年、私をこの世界から遠ざけることになった。下手でも「うまく描けたね」というおとながいたら、人生は変わっていたかもしれない。

その後、絵は好きでも描くべきものではないと諦め、さっさと選んだのは、語学だった。多少なりとも人並みの成績を収めることができた英語を伸ばすべきだったが選んだのはドイツ語。ここでもまた私は本来自分がやりたいことを選んでいなかった。英語よりドイツ語の方が難しくて人がやらないので恰好いいと思ったのだ。確かにドイツ語は私には難しくてものにならず、4年間の大学生活を無駄にした感があった。大学を卒業して、やはり英語の響きが懐かしくて、細々と習い続けたがそれも引っ越しを機にやめてしまった。次に英語を学ぶには10年を待たなければならなかった。45歳のとき。 たまたま、高校の後輩と話をする機会があった。いろいろ様子を聞いていたら、どうも、オーストラリアで働いた経験もあり、現在は、英会話を教えているとのこと。彼女に月に2度レッスンをお願いした。頭は錆びついて、気力も体力もなく、なかなかもとのレベルには戻らないが、とにかく「続ける」ことを目標にした。

そんなわけで、取りこぼしてしまった英会話、これまで手がだせなかった禁断の美術の世界と私の老後の楽しみは膨れ上がった。

が、充実した日々と思いきや、陶芸教室に通い始めたころから、体力が続かず、めまいと耳鳴りに悩まされた。還暦を迎えて数か月ほどたったときのことだった。耳鼻科通いが始まり薬漬けの毎日になる。なかなか収まらないめまいと耳鳴りに苛立ちながら秋を迎えた。

師走の声を聞くころ、素人判断でめまいと耳鳴りは自律神経のせいかもしれないと思いだした。同じ年ごろのご婦人の例にもれず、年齢とともに体重ももれなく加算されてきた。お昼休みに某スポーツクラブで体力作りを週3回することにした。もう破れかぶれ状態だった。少々のめまいは無視して、通うことにした。この体力作りが功を奏したのか、最近めまいがあまりしなくなった。筋肉もついたが、なにを食べてもおいしく、体重も順調に増えだした。痩せる効果はなかったが、とにかく毎日無事に過ごしている。

気温11度。西の風。61歳と24日。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?