後悔してる神様との約束

今回神様とした約束の話についてリクエストを頂いたので書こうと思います。

過去に何度か触れているのですが、リクエストがあったのできちんと長文を書いていこうと思います。
約2万文字です。だるい人は戻ってくださいね

そもそものきっかけ

昔私はただのスピオタ(スピリチュアルオタク)でした。過去の記事にもあるように(スピリチュアルに逃げる人の記事↓)

ただの現実逃避からそういった世界に本当の自分の居場所があるのではないかと考えたからです。そうしてある時、聖者に会うのは簡単ではないと読んだりしたのもですから、スピオタであった当時の私は何か特別な人間に選ばれた気に成りたくて聖者の来日を調べまくったりしたものです。

ところが、来日するのは胡散臭い自称聖者、自称ライトワーカーだの、自称光のなんとかという横文字を名乗る怪しい人ばかり。
なぜわかるかって?
言ってるそばから矛盾してたり、愛がなんだと言いながらこういう人は悪人だと憎しみの感情を植え付けるようなことを言ったり、考えるな感じろがスピリチュアルの真髄だとブッダの真逆を口にして自分の言いなりになるように思考能力を奪い、私達は真のスピリチュアルに目覚めたとアピールしてお金儲けする人が本物だと思います?

そう簡単に聖者と呼ばれる存在があっちにもこっちにもいるわけがないし、まして日本に来ることなんて希だから、私は人生をどうしたらいいのか考えよう、胡散臭い自称ばかりの偽聖者なんかにかまっていられない!と再びストイックに、人はなぜ生きるのか、など哲学を極めたいの?と言うようなことを日々考えて過ごしていました。

それは、そういったことを考えなければ生きてはいけないと思うような環境ということでもあります。いつも生きること、死ぬこと、他人との関わりについて頭を悩ませ壮大なことについて知りたい、真理があるのならそれを掴みたいと考えているような人生でした。それしか私の人生の苦しみから抜け出す根本的解決方法が思いつかなかったからです。

一番私の古い記憶は3歳の頃です。その頃すでに死にたいと考えているような環境でした。もしあなたがそんなはずないと思うようでしたら、それはあなたが幸せな環境だったということです。子供だって死を願います。そういったことを知っているだけでもある意味特殊な環境であり、占い師という他者を理解して成り立つ仕事には必要な環境だったとも言えましょう。

そんな私にとっていろいろなスピリチュアル情報はなんだか納得がいかないものが多く、違和感を口にすることはお寺に行ってキリスト最高!と叫ぶくらい駄目な雰囲気がありました。
具体例ではエネルギーバンパイアとかドリームキラーと呼ばれるようなところです。エネルギーバンパイアについては書いてあるのでよかったら過去記事読んでください。↓

いろんなスピ系に顔を出しては

ポジティブになろう!(ネガティブはだめ!)
自分を愛そう(否定はだめ!)
愛で動こう!(怒りや悲しみはだめ!)

と言われてはそれができていない私を否定されているように感じ、それができていない私はなぜ存在しているのだろうとより疑問を深めるだけでした。
そうして【否定はだめ】という文章の中に、否定はしてはいけないと否定しているこの文章自体の矛盾に首をひねっては、

そんなことを考えるなんてどうかしている、
信心が足りない
疑問を持つこと自体がいけない
考えすぎ

とスピリチュアル的に〜とご高説を述べる人ほど私を否定したものですから、スピの世界からも否定され、スピの世界に興味のない人たちからも否定され、親や知り合いにも否定され、結局この世のどこにも私の居場所なんぞないのだろうと更に自分自身ですら否定して過ごす苦しい時間がありました。

そうして誰に聞いても否定しないやり方をきちんと教えてくれる人はいませんでしたし、矛盾を付けば愛を持って動けと言っていた口でそんなんだからだめなんだとキレだす始末です。そうしていよいよ、もういっそのこと死ぬしかないのかもしれないと追い詰められたとき、とある聖者に出会うことになりました。

聖者との出会い

その聖者は少し変わった人でした。みんなは口を揃えてすごい、すごい!というのですが、私にとっては何でも知っているおじいちゃんくらいにしか感じていませんでした。

ところが後に知ったのですが、何でも知っているのレベルが全く違い、NASAの宇宙開発の質問に(つまり専門的な知識がないと無理な質問)スラスラと答えたりするような人だとか、仏教徒なのにキリスト様の教会でクリスチャン相手に講話をしたとか、イスラム教徒に至っては、何やら人間には理解できない神様的な理由あって袈裟(けさ)を着ることになったイスラムの聖者なんて言われてるような人でした。

そんな人だからこそ、私の幼い頃からの疑問に何でも答えてくれました。そうして、今までであってきた自称スピ系リーダーたちとは違い、全く矛盾することもなく、そうして納得しかない答えでした。

私はそのおじいちゃんに質問し、聞いたことを実践し、できなかったところや新たに生まれた疑問を再びおじいちゃんに聞きにいく、そんな感じで何度も教えを乞いました。ときには

言えと言ったから言ったらトラブルになった!どういうことなんだ!!

とクレーマーのように突っかかることもありました。(もっと丁寧な言い方ですけどね)そのくらい切羽詰まって生きていたのですが、そんな失礼な私にも

それは、言い過ぎたんだな。

と笑顔で答えてくれるような人でした。そうしていろいろなことを聞いては失敗し、そしてまた質問し、そうして何度も繰り返し、やっと私が普通の人間に近づいた頃、女性の聖者が来日すると知りました。
おじいちゃんは当然男性ですから、どちらかといえば厳しいお父さんのような聖者です。母親との問題も抱えていた私はお母さんのような聖者に会ってみたいと思うようになりました

女性の聖者

 その聖者は女性でお母さんのようなエネルギーの聖者です。
来日する日を早速調べて会いに行くことにしました。

一番始めに会ったときは
なんだ。こんなものか。
と思いました。
聖者相手に本当に失礼だと思いますが、出会った瞬間に人生が変わる大きな体験をすると勝手に期待していたからです。
当然ですがそんなことはありませんから、こんなものか、となります。
そんな失礼な私でさえ聖者たちは笑って許してくれたから言えるのですが。

私はこの女性の聖者来日のたび毎年会いに行っていました
キリスト教で言う賛美歌のようなものがインドにもあります。
これをバジャンといいますが、ある来日の開会式のときこのバジャンの歌詞が私の質問に答えてくれていると気が付きました。

神様としてしまった約束

自分を愛するとは?愛って何?神はいるの?いるならなぜ私を見捨てたの?なぜ姿を見せてくれないの?どうして試練を与えるの?なぜ私は誰からも愛されないの?親も皆も毎日死ねと私に言うのはなぜ?どうして私はこんな人生なの?どうしたらこの苦しい状況から抜け出せるの?私はいつか幸せになれるの?.…無限に湧いては答えが出ることもなく消えていく数々の質問にバジャンの日本語訳の歌詞が一つづつ答えをくれていることに気が付きました。

例えばこんな感じです。(歌詞自体はうろ覚えなのでニュアンスで覚えている感じです。正確ではないのであしからず)

Q 愛とはなんなの?
A 愛とはこの宇宙のエネルギーのこと、神そのものです
Q てことは神はいるの?
A 神はどこにでもいます。あなたの心の中にも。
Q じゃあどうして姿を見せてくれないの?
A 私が姿を見せないのではなく、あなた方が私を見ないのです。私はすべて、万物の中にいます。・・・・

といった感じに私が疑問に思えば、すぐにその答えが次の歌詞として表示されるのです。

たったの一度や2度ならばそれは偶然かもしれません。
ですがそれが数十分にも渡り1行も無駄にすることなくこの奇妙な質疑応答は続いたのです。
当然ですが、こんなことも思いました

Qこれって偶然なのですか?たまたまこうして歌詞で答えてくれているのですか?

A神はすべてを知っています。そうして全てを愛しています。あなたが偶然と思うことも必然として神の愛はいつも手を差し伸べています。神を称え、、、、

こうなったらもうなんだか、子供が大人には何をやっても勝てないと降参するときのような、そういった気持ちになりました。
当然ですが、会場にいる数千人の人たちはこのバジャンの後の聖者とのハグをメインに会場に来ているため、バジャンで号泣している私を不審な目で見ていますが、そんなことはお構い無しで私は号泣しながら心の中でこう言いました。

私は今あなたの愛と慈悲に触れました。あなたは私に答えをくれました。だから私はあなたがしてくれたように、あなたの愛と教えを伝える人になりたいです。神は存在すると、魂の道標として、私を神様の道具として使ってくれるのなら、私は私の体も時間も心も魂でさえあなたに捧げますから、どうか私を神の道具としてお使いください。

いま思えば、やめとけって。って強く言いますし、止めますよ?
なんでしょう?ノリとかテンションとかそういった感じも大きいように思います。会場の雰囲気とかそういうのってありますよね。外で食べるといつものご飯でも美味しく感じる的な。とても後悔しています(笑)せめて一部にしておけばよかった。

余談ですがこの話をすると本当にスピリチュアルの道を歩んでいる人ほど、勇気あるね!私は半分にしたよとか、私はできる範囲でって言ったよなんて言いますから知らぬが仏とはこのことです。ちなみにエセスピの人ほどそんなこと言うなんてと否定してきます。

すると歌詞でこんな答えが来ました

そうです、それで良いのです
それこそが本来の人のあり方です
あなたの願いは聞き届けられ 神はあなたを祝福します

それから、いろいろなことが起きるようになりました。
今まではじっと自分を見つめ哲学のようなことに向き合っていましたが、より一層人生がハードモードになり、トラブルがたくさん起きるようになりました。
自分では解決できそうもないくらいにこじれて限界になると私は再び男性の聖者を訪ねああだ、こうだと言っては答えをくれとせがんでいたように思います。

問題が起きてから乗り越える方法を体験し、その問題を解決し、次の問題がまた起きるというサイクルがとても短くなりました。体感で言えば1/10くらいで、何年もかけていたことが数カ月で終わったりもしました。聖者のヒントすごいです!

そうやっていくつかの問題を乗り越えたら、周囲の人たちが私にどうして?と聞くようになりました。
それに対して私は経験したことや聖者に聞いた事を話しました。

こういったときはこうした方が早いよ、
聖者の叡智を伝えていく中で、伝え方や話し方で悩みを抱えてはまた聖者を訪ね教えてくれとせがんでは、うまく行かないとクレームを入れていました。

 それから私が占い師としてだんだんとファンのような人がついてきますと、困ったことが起き始めました。

なぜ後悔しているのか

一番はじめのきっかけはとても些細なことでした。
アンテナを貼っていなければきっと見落としていたでしょう。
あるお話を聖者がしているときに、質問は?と聞かれました。
みんなは質問をしませんでしたが、そのとき私はなぜだか挙手もせずに勝手に質問し始めていました。そうしてそのことに私自身が少しびっくりしていました。その内容にはあまり興味がなかったからです。
 当然ですが、その質問に聖者は答えてくれました。
バカとかアホとか言いながら(笑)

ですが、その質問によって聖者は伝えるべきことを思い出し、ある男性に『ああ、そうだ、』と話しかけていました。
わたしは、ピンときました。

なるほど、神の道具になるとはこういうことなのか。
確かに時間も体も何もかもといったのは私だからね、勝手に体を使ったと怒るこることもできないや。でも勝手に使ったのだから馬鹿とかアホとか言わなくてもいいじゃない。

そう感じましたが、実はこれも罠なんです。
私を道具として使ってくださいと頼んだから、そうしてくれました。
それに対して、ありがとうとか、よくやったとか、当然そうやって褒めてもらえると思っていたのです。
だから聖者はあえて、バカとかアホとか言ったのです。
そうやって、

自分が望む答えが得られないときもあるのだよ?あなたが選んだ道はそういう道なのだ。たとえ人に恨まれても、憎まれても、怒らせることになっても、傷つけられたとしても、それでも進み続けるのが神、仏の道なのだよ、それでも行くのかい?

そういうことを馬鹿、アホ、という言葉に込めて伝えてくれました。そんなのわかんないよ?って思うでしょう?
言われた日は私もわかりませんでした。
でもその次の日の夜にこのことに気が付きました。
悔しくてずっと考えていたからです。
そうして私がこのことにきちんと気がつくことも含めて神様と聖者はきちんとわかっていたからあえて馬鹿とかアホしか言わなかったのです。スパルタ過ぎない???

ちなみにチャネリングのメッセージもこんな感じです。
詳しくはこちらに。

 例えば般若心経のようなお経でも使われているように、チャネリングのメッセージというものは意味が何重にもなっているのです。
チャネリングをしていてもこれを知っている人は少ないでしょう。
大抵の人は表面を見たら理解した気になりますから。

プロでも全く理解できない人もいるようで、こじつけだの何だのと、否定されようと批難されようと事実が変わるわけでもありませんし、かといって証明もできませんから、

じゃああなたにとってはそうでしょう、私にとっては違いますけど、

と言うよりほかないのです。どうせそんな人は自分と違う意見を受け入れませんからね。

すると、あいつは口がうまいから煙に巻こうとしていると集団に紛れて後ろから非難するのです。そうするとみんなが言っているのならきっとそうなのだろうと事実確認をすることなく、さも自分が見聞きしてきたかのように一緒になって騒ぎ立てる人まで出てきて、こういった人が拡散しデマを広めるのだろうなと考えて溜飲を下げるよりほかないのです。

こんな具合にいつも何をやっても言っても非難されて、否定されて、それでも本当の事だから誰か聞いていてくれるのではないかと期待しては叫び続けてまた否定され傷つき涙する。

自分がしてほしかったことだからこそ、私に投げかけられる言葉の裏側の意味やそのニュアンス、隠された意図や思惑などに一層興味を持ち、汲み取ろうとしてきたからこそこういったことに気がつけるようになったのかもしれません。

そしてまたやめておけばいいのに、このバカとかアホに隠された愛ある意味に瞑想中に気がついてしまったばっかりに、よせばいいのに(強調)

それでも私はこの道がいいです!あのときの感動をやっぱり伝えていきたいし、聖者に教わったことを私1人が死んで終わりにしてしまうなんてもったいないから誰かに少しでも伝えていきたい!だからやっぱり神様の道具として使ってください!

なんでしょうね。
瞑想中でナチュラルハイにでもなってたんでしょうね。
こんなふうに再び約束を勝手にしてしまったんです。

魂の願いって本当に厄介で、魂の願い通りに行くとなかなか苦行になりがちです。それを楽しめたら最高ですけどね。少なくとも私はその境地にはまだまだ精進が必要です。そうして脳みその願いよりも魂の願いが優先されますから、結局キャンセルもできないんですよ。本当の本当は望んでいるのでしょう?ってね。

まあ、半分は茶化して書いていますが、結局私はそんなふうに2度目のお願いを神様にしてしまいました。勝手に。
そうしてそれはどうやら再び受理されてしまったようです。
それから私とその周囲に異変が起きるようになりました。

異変

はじめは私と仲が悪かった人たちです。
特に私側がよく思っていない人たちに変化が起きました。
何故かそういった人たちとの縁が切れていきました。
そうして必ず相手は私に対して罵詈雑言を浴びせかけて去っていきました。

いままでだったら、そういった根も葉もない噂に対して反論する私を信じてくれる人は1人もいませんでした。
なんなら自分がターゲットになりたくないからと本当を知っているのに一緒になって私を攻める側の人間しかいなかったのですが、このときから変わりました。

 相手の罵詈雑言に対し、私以上に怒ってくれたり、守ってくれようとしてくれる人が現れたのです。

私は今までの人生で親も含めて下心なく守ってもらう経験が全く一切なかったので大変戸惑いました。箸が転がっても、雨が降っても、その場にいなくてもお前が悪いと言われたことは数知れずあれど、お前は悪くないなど言われたことなんてなかったですから。

どんな表情をしたらいいのか、どう言ったらいいのか、何もかもどうしたらいいのか全くわかりませんでした。経験も、知識もないから喜びや感謝を表現する方法がわからなかったのです。ありがとうって言えばいいのは知っているけど、いつ?どんなふうに?それだけでいいの?と。逆に言えばそのくらい私の周囲は悪意と偏見に満ちていたのですが。そうして知識と経験はセットと学びました。

次に私と仲が良い人たちが私に色々と質問をしてくれるようになりました。
といっても、大抵は私が占い師をしていると知って無料相談できると利用されてただけですが。
そうして一緒にいろいろと悩み、自分と向き合うこと、他者と関わること、自分が変わることの意味などを学びました。

私にとってごく一部の問題は初めて1人で悩むこともなく、共に悩みはげまし合い、ともに試行錯誤し、共に変わって成長するとても楽しい時間でした
(大抵は自分の事で手一杯と私の悩み相談に乗ってくれません。自分は頼るくせに私が頼るとキレるのですが自分が困ったときだけ友達でしょ?と言うので私の相談や愚痴に付き合ってくれる人はとても貴重でした)

そんなごく一部の友人もいろいろと変わっていくと、次第に大きな事件が起きます。
パンドラボックスの上に積もっている表面のゴミを片付けている間は良いのですが、いざパンドラボックス本体の掃除となると、一斉にみんな罵詈雑言を吐いて逃げ出すのです。

みんな本当の意味で自分を見つめることをしたくないのかもしれません。本当の意味で自分を見つめ、自分の本質を見ると、芋虫が蝶になるように全く別の存在になってしまうと感じていてるのかもしれません。

私にとっては全く違う人になりたいと感じるような環境にいたから変わることになんの恐れもなく、必死にあがいていたら変わっていたという感覚が一番近いです。
変わらないでいることは否定と批難と悪意に耐えるだけなので苦しいのなら変わる以外になかったのです。そのままの自分でいることは私にとっては恐怖でしかありませんでした。

でもみんなは違います。
自分が好きだ嫌いだと言っていても、結局のところ今の自分もそれなりに好きなのだと思います。
今の自分【が】好きなのかもしれません
蝶は芋虫には戻れないのに、芋虫が蝶になっても別の個体ではないのに、今の自分が死んでしまうかのように感じているようです。

その結果、パンドラボックスを開けなければいけないような出来事がおきると、まだ開ける準備ができていない人たちは

あなたといるとろくなことが起きない。
今までは小さなトラブルや小さな出来事だったから付き合っていたけれどこんなに大きなトラブルが起きるだなんてあなたは悪魔か何かがついているに違いない、もうあなたとは一緒にいられない、

他にもいろいろと言われてきました。
それでも過去の経験が、罵詈雑言を浴びせられても言葉に左右されて鵜呑みにする人はそもそも私を信じてはくれないし、そうじゃない人は何も言わなくても私を信じてくれると自信をくれました。

とはいえ私も人間ですから、イラッとして言い返してしまったりもします。

逆にわざとトラウマスイッチを押したこともあります。
わざとというのは、嫌がると知っていながらそうしてしまったとうよりも、それ以外の選択肢が無いという方が良いかもしれません。聖者に質問したときと同じように、体を使ってくれたのだろうと思っています。

ある人のケースです
その人は他人を許せない人でした。
何か一つ、一回でも自分が気に食わないことをすると縁を切る人でした。
パンドラっボックスの中には幼少期の母親に対する怒りを抱えている人でその怒りを母親に向けることができないから周囲の人に1回でも気に食わなかったら縁切りという行動で示していました。
そのことを私は何度か指摘していましたが、全く届きません。

ある時、一緒に聖者の講演会に行こうと誘われました。その人のエゴの本質はこうです。

私はあなたを許さないけどあなたは私を無条件で許してね。

私はこの人との関係を切るのは今だと強く感じていたのです。
そうして聖者の講演が始まると私は急にその人と一緒にいるのさえ居心地が悪くなってきました。そうして私は少しロビーに行ってくると言い、1人になろうとしました。すると、本来パンフレットと一緒に配られるものが足りないという事件が起きました。それを私が取ってくると伝えると、一緒に来ると言いました。来なくてもよいのに来るといったのです。
こうして状況が整ったと私は感じました。

来るはずの人が来れなくなり私が行くことになった偶然
理由もなく居心地が悪くなり1人になって足りないものがあると知った偶然
あるはずのもが私達にはついていなかった偶然、
来なくていいのについてくるといった偶然、
そうしなくてもいいはずなのにそれしか選択肢がないかのように感じていた偶然

偶然がいくつも重なってついに私は一番その人が嫌だと言っていたことを目の前でしました。
そうしてその人は離れていきました。
私は安堵しました

そのときはそうする以外に選択肢はないように感じていました。そうして正しいことをしたと感じていました。もちろんこういった行動には意味があります。(後述)

こんな感じで私自身が確かにそのように行動したけれど、あとから考えたらなんでそうしたのか全くわからない言動が増えました。
普段の私ならそういった行動はしないのです。

そうして私とは全く関係なく、家族問題や失恋など結構重めな事件が起きたりとか、そういった形で学びをする機会を私も周囲の人間も与えられることが増えました。

私はそれが当たり前の人生でしたから、またか、ですが、普通の人にはまれなようで、あなたといたから、と自分のせいは嫌だしということで私のせいになります。

当然ですがそれは、悪魔がついているとか、悪魔と契約しているとか、悪霊に取り憑かれているとか、そもそも私が歴史的な悪人の生まれ変わりであるとか、荒唐無稽なものが多いのですが、そういったように言われて悩んだこともあります。

 私が悪いの?

困ったときの聖者です。私はいつものように聖者のところへ質問をしにいきました。

友人や知人が言うには、私が悪い存在で一緒にいると悪いことが起きるそうです。本当にそうなのでしょうか?

すると聖者は笑って言いました。

もし悪魔や悪霊がいるのなら、お前はここには来られない、俺が怖いと思うだろうな。誰であっても神様の許可がなければ、私が会いたいと思っても、お前が会いたいと思っても、私に会うことはできないよ。
だから前世や今がなんだとしてもそんなことは関係ない
そんなことを言ってる奴らのほうが神の愛から遠ざかっているんだ。
もし本当に悪魔や悪人だとしたら、そういった者にこそ愛を説くのが神だろう?お前が正しい道を歩んでいるのに自分はそうできないからあのぶどうは酸っぱいと言ってる狐と一緒だよ。言いたいやつには言わせておけばいいんだよ。狐がなんと言ったってぶどうの味はいっしょだろ。

※すっぱいぶどう
イソップ童話
高所に実っていて食べれないぶどうはどうせ酸っぱいに違いないと話す『狐とぶどう』の話から負け惜しみのことを指す。

私は本当にたくさんの知恵をもらいました。そうして心を救ってもらいました。当然ですがこんな質問もしました

彼女たちに言わせると、私と一緒にいると事件やトラブルがたくさん起きて嫌なことと向き合わなければならなくなると言っていたのですが、それは私のせいなのですか?

すると今度はこう答えてくれました

そんなことは気にするな。俺もそんなことはしょっちゅう言われる。
あれもこれも俺のせい、太ったのも痩せたのも俺のせいだと言っている。
いいかい?言いたいやつには言わせておけばいい。
誰に何を言われてもお前はお前なのだから。
 自分の魂に胸を張って歩めば誰に何を言われてもきにならないよ

結局事件は起きるよね

こんな感じでいつも色々たくさんのことを聞いてきたのだけれど、結局事件が起きるのって私のせいかどうか答えてないよね?(笑)

科学的 占術的 心理学的 医学的 哲学や宗教的、、、など一回気になると様々な角度から本質を追求してしまう性質を持っていますので、調べてみたりしてわかったこと。

 私は神様に勝手に宣伝マンやりたいです!神様仏様の知恵を宣伝してきますね!
って約束というよりも一方的に言い放ってきました。
そうするとやっぱり

まずは自社製品の良さを知ってもらわないと!

という感じで事件が本人に起きます。

事件が起きる意味
それを乗り越えるまでの過程
乗り越えたあと

つまり、知識と体験がセットになって初めてそのことの本質を知ることができます。そうして知恵になったとき初めてそれを人に伝えることができます。

素敵な考え方だなあ、かっこよく生きたいなあと実演をみせられて、私もって感じで本当のスピリチュアルの世界に、つまり愛の世界にうかつに足を突っ込んでみたら、これがまあ、苦行、苦行に、涙涙。
事件にトラブルに問題しか起きないような気になって、神も仏もあるもんかってくらいに悪態をついて泣きながら聖者のヒントを頼りにやっとなんとか抜け出して、そんなことの繰り返しなんですから。

そうやって乗り越えた人しか伝えられない言葉や経験があって、逆に言えばそうやって自分の経験からの言葉しか他人の心は動かせないから、いろんなことが起きるようになります。良いことも悪いことも。
そうして魂のレベルの話になれば、良いことも悪いこともなく、全部良いこと、楽しいこと、経験したいことにしかならないのですから困ったものです。

もちろん、これ以外のやり方もあります。ですが私は伝えていく必要があるため、言語化する必要があります。だから深く理解していなければならないのです。

そうして、自社製品の良さをわかって初めてセールスが始まります。

これと全く同じで、私が理解したことや乗り越えたこと、今実際に乗り越えようとしていることが、私の周囲の人たちに起こります。
それは闇雲に起きるのではなく、あくまでもその人たちの魂が望んでいて、さらに私にアドバイスを求めるのが明確なとき、学びは加速されます。

だってそうでしょう?
それほしい!って人がいて、これ配っているよ!って人がいたら
当然それは需要と供給が成り立っているわけですから。
そうして大事なことは、

魂の望みは脳みその望みとは一致しないことが多々ある

ということです。
例えば基本的に私達は生きたいと感じていますし、死にたくないと感じています。それは本能でもあります。
ところが魂レベルの話になると全く違ってきます。
なぜなら、肉体は永遠ではありませんが、魂は永遠だからです。
だから、死を体験したくて生まれてくる魂もときにいます。
辛いことや苦しいことを体験したくて生まれてくる魂もまれにいます。
脳みそを持って生きている私達には全くそんなはずがないと考えてしまいますが、そういったこともあるのがスピリチュアルの世界です。
ですから、魂の望みと脳みその望みは一致しないことが多々あるのです。
そういったとき人は苦しいと感じます。辛いと感じます。
そうして、そういったことが起きるのは、運命とか自分以外のせいであって自分は被害者なのだと考える傾向があるようです。

そんな時私はお前のせいだとできる相手のようです。
わかってくれるだろうとか、許してくれるだろうとか思われても、私だって人間ですから鬼だの悪魔だの人殺しだのと全く身に覚えのないことを言われたら悲しくなりますし頭にくるんですけど、私は全く傷つくことなく笑って許すとでも考えているのでしょうか?理解はできても共感はできません。
かと言って名誉毀損だの何だので裁判するのもなあと思いますし、そうやって放置するから余計につけあがるのかもしれません

じゃあどうしたらいいのさ!

なんにもしてにないのにお前のせいだと言われても、私自身がそうしたくてそうすることはまれです。
それだってそれしかないような考えになっていて、普段の私の行動とは全く違うと後で気がつくのに、私だって他人のせいにしてもいいのなら、あなたのせいで普段しない行動をする羽目になったじゃないかって言いたいです。

でもそんなことをしても意味がないことも、私自身がそうやって私のせいではない責任を勝手に押し付けられて苦しんできたからこそ、そういったことをしたくないんです。
そうされた苦しみを知っているから。

自分がされたから私がしたっていいじゃないって人も世の中にはいます。そういった人ほど、【ありのままの自分】とか、【無理しない】とか、【頑張らない】とか、きれいな言葉でラッピングして私の代わりに苦しんでと他人に責任を押し付けてくるので要注意です。無理しないのも頑張らないのもありのままでいるのも自分のことしか気にしないそんな身勝手な人は私の分も周囲が余分に無理して頑張ってねと押し付けて来るのです。
頑張らないとかありのままとか大義名分を掲げて自分が攻撃されないように&周囲に押し付けやすいようにという悪知恵なので普通に本人にやらせるほうが良いです。やってくれて当たり前どころかやらないと批判してきます。
大抵は『私のせいなの?!』とか『私が悪いっていうの?!』って言いますからそうだよってはっきり言うと泣いて周囲の同情を買って私悪くないパート2発動です(笑)
なので、『無理しないとか言ってその分私に無理しろって押し付けてるのに私が悪いっていうの?』と【私のせい返し】をすると良いです。良いことは自分のおかげ、悪いことは誰かに押し付ける、それが責任転嫁する人達です。

自分がされたら嫌なことはしちゃ駄目だって幼児でも知ってるのに!!まあ、大体は無自覚なので余計にたちが悪いんですけどね。

そんな人ばかりでとにかく私は余計八方塞がり!!
これは聖者に助けてもらわねば!!
ということで相談した結果が、【好きにしろ】というまさかの。

それもそのはずです。
例えるなら、

火をさわってみたいけど、やけどはしたくないんです。でも素手で触ってみたいんです。でも熱いのは嫌なんです。

って言っているのと同じなのですから。

結局私はどうしたいの?になるんです。
そうやってお前のせいで!といわれてもやりたいの?って。
そうすると、脳みそは、嫌だ辛いというけれど、魂はやっぱりやりたいっていうんです。そうして脳みそは魂には勝てないんです。それで結局はやっちゃっているんです。

人は鏡というでしょう?


人のふり見て我がふり直せ 
同族嫌悪
類は友を呼ぶ

結局自分は他人の鏡であり、他人は自分の鏡です。
鏡は左右反転するように、ときに自分が全く持っていないからこそ出会う人もいます。自分と同じだからこそ出会う人もいますが、どちらにしてもそこに学びがあるから出会います。
それはただ楽しかった!!と体験する学びかもしれませんし、私のように色々と悩んで苦しんで泣きまくってから得る学びかもしれません。
いずれにせよ、人生において不要な出会いなんてものはないと私は知っています。

私に意地悪をしてきた人も、私に優しくしてくれた人も、お互いに何か意味があるのだろうと思います。そうしてその意味は私のように生きているうちに知りたいと思う人間もいれば、多くの人のように死んでから知ればいいと特に追求しない人もいるでしょう。どちらが良いとか悪いではなくて、ただそういう人がいる、それだけです。

そうして私は占い師をしています。そういったカルマがあるからです。占い師として過去生で少なくとも2回は失敗しています。今回が3回目です。(もっとあるかもですが。)詳細はこちら↓

私はもう火あぶりも占い師も止めたいから、聖者にであってその知恵を分けていただいたのだと思っています。

人は鏡。これは宇宙の法則です。
スピリチュアルの人達が言うワンネスとかワンレスとかいろんな言い方があるけどアレです。

私のところに依頼に来るお客様は必ず、人生の分岐点にいたり、新しいステージに立って戸惑っている人や昔の私の様にもう嫌だと泣いている人ばかりです。

友達の付き添いで
なんとなく
暇だから
時間潰し

みたいに偶然来られる方もいますが、そういった場合はどちらか、また全員が人生の大事な時を迎えようとしている人ばかりでつまり必然です。

それは私が神様にそう願い、私自身もまた成長と変化を望んでいるからです。類は友を呼ぶのです。
そうして一番の理由は私の願いをきちんと神様が聞き届けてくださってその約束を守ってくれているからで、私が持ってる知恵を必要だと助けて欲しいと願う魂の声を聞いて叶えてくださったからです。

私の印象

私に対してどんな印象を持っていましたか?と聞くと、90%位の人が

怖い、
魔女のようだと思った、
厳しい人だと思っていた
怒られると覚悟を決めてきた

といいます。鑑定後に
今は?ときくと、

最初は怖かったけど(まだ言う?笑)意外と話すと面白い
言ってることは耳が痛いけど愛があると感じた
この人の良いところは実際に話さないと伝わらないからもったいないと思う
宣材写真変えたほうがいいと思う。

だいたいこんな感じです。

残りの10%の人は、ひと目見てライトワーカーだとわかった、あった瞬間あったかくなって光の存在がうんたらかんたら・・、あなたは前世で一緒に銀河のウンタラで活動していた仲間だ!etc…というようなよくわからないカタカナがたくさん出てくることを言います。このあたりに関して私は、そうですか、でも今は人間ですよ、と答えています。

とにかく、私の第一印象は悪いのです。
大抵の人が怖いというのです。そうして話してみないと好きになれないということも判明しました。これ、いかに!?ということで困ったときの聖者です

A 第一印象が怖いと言われるので、笑顔を心がけていますが全く効果がありません。一体何がいけないのでしょう?知らず知らず心の壁を作っていたり、相手を威嚇しているのでしょうか?

Q 気品があるから近寄りがたく思っていると思えばいい。気高く生きているから近寄りがたいと周りが勝手に距離を取っていると考えなさい

とのことでした。
ポイントは、【と考えなさい】の部分です。
つまり断言していないだけではなく、そう考えたらいいよということは実際には違うということです。言葉の罠ですね。そういうのはチャネリングメッセージで鍛えられているので悲しいことに気がついちゃいます。

ですが実際に感じていることがあります。
イエス様とブッダ様の波動を感じられるものがありますと、大抵の人がイエス様の方に行きます。

なぜなら、イエス様は愛の聖者ですから、どんなあなたでも基本的には愛し許し受け入れてくれます。
ブッダは智慧の聖者ですから、自分と向き合い悟ることを促します。
つまり変わること、悟ることをおすすめしてくるので、今の自分のエゴだの煩悩だのだめなところと向き合わないといけないのです。

そうして先程も書いたように、大抵の人は今の自分が変わってしまうことを怖がります。だからみんなブッダ様の波動よりもイエス様の波動のほうが居心地が良いと感じます。そうして自分と向き合わなければならない仏陀様を怖いといいます。

ですが、イエス様、本気出したらブッダ様よりスパルタです。だってそうでしょう?イエス様の使徒12人のうち死刑にならなかったのは1人だけです。邪教とかいわれて死刑になっても信仰を貫くか問われ、結局は死刑執行(殉教)!
イエス様本人も時期外れにイチジクの実が成ってないと怒って枯らしたり、意外とブチギレエピソードは聖書に満載です。(暴論)

一方、ブッダ様の弟子はブッダ毒殺未遂事件、弟子をごっそり引き抜いて自分の教団立ち上げ事件、、、弟子も基本長生きですね。仏陀は『寝ぼけてんじゃねえ!寝言を言ってないでさっさと起きろ!』と目覚めろ(悟れ)といいます。

イエス派
洗練受けてない=神を信じないと地獄行きだし生きてる間くらいは許してあげるよ、死後は地獄で永遠苦しむんだし。
仏陀派
人生悩まない様に何度も生まれ変わって悟ろうぜ!!まあ、悟るまでは苦だし、それすらどうせ全部幻なんだけどね!!
皆様どっちが好みです???

トンビはタカになれないけど逆もしかり

占い師なんてものは店先に写真が貼ってあったりしまして、結局顔を見てこの人がいいなとか、この人は嫌だなとかそんなところでお客様がついたり離れたりするようなところもありますから、私の写真を見て怖いと感じる人が私を指名をすることはまれです。

怖くても来る人は、他に人がいなかったから仕方なく、とか友達に誘われてしょうがなく、もういっそバッサリとどめを刺してほしい、などそんな人ばっかりです(笑)
そんなわけでたいていの場合は閑古鳥が鳴いていまして、その件についても聖者に相談に行きました。

客商売をやっていますと、第一印象が怖いというのは厄介で、これはなんとかなりませんかね?なんとかできないにしても宣伝や集客の方法を教えてほしい   
なんて感じで質問しますと

私でさえここまで来るのに10年以上かかっているんだよ。最初は誰も来なくてね。でも本物は放っておいても勝手に誰かが見つけて、勝手に誰かが宣伝してそうやって広まっていくから、本物を目指しなさい。一朝一夕で売れたいだとか、有名になりたいだとかそんなふうに考えてはいけないよ、そういったのは消えるのもあっという間だよ

そうは言っても最初のお客さんが来て見つけてくれないことには広まりようもないじゃないか!とそんな感じで文句を言う私に、

最初の客が来ないうちは自分を磨いて本物になる時間だと思いなさい。そうやって準備ができたときに最初の客を神様仏様が用意してくださるんだよ。

まあ、そんなわけで、怖いだとか魔女だとかそんなふうに言われて閑古鳥が大群で喚いている中、なんとかちらほらお客様が見つけてくださるようになったので、次は質の良いものを提供して勝手に広めてくれるように頑張ろうと四苦八苦している次第です。
やっとちょっと神様の道具として使えるくらいにはなってきたのかな?

とんびはタカにはなれないのですが、トンビにはトンビの良さがあります。タカが好きな人にはトンビの良さなんてわからないし、鷹のほうが良いじゃないかと言うのです。
そうしてトンビで居ろとかタカになれとかそんな感じでなにをするにも、何か問題が起きてそこから何かを学び取ってそういった人たちが全く気にならなくなるまで場所を変え、人を変え、時間を変えて起き続けます。

そうしてそれが気にならなくなると、面白いくらいそういったことがぴたっと起きなくなるのです。次に今度は、そういったことに悩む人がお客様として私のところにやってきます。

そうして私の占いや話を聞いて、そうか、じゃあやってみると帰っていって、おそらくその人たちもまたそういったことがもう気にならなくなるまで(つまり課題をクリアするまで)そういったことが時間を変えて場所を変えて、人を変えて起きているのだろうと思います。

ただ、私の占いに来なくても、人生で設定してきた課題というものは時間を変えて、場所を変えて、人を変えて、何度もクリアするまで起きますが、
私のところに来る人の特徴として、

■何度も繰り返していて、もううんざりだと感じている
■怒られても叱られてもいいからとにかくこの状況から抜け出したいくらい追い詰められている
■人生を左右するような大きな分岐点にいる
■スピリチュアル的に大きなきっかけがひかえている
■自己愛、自分を愛する、自分を癒やすということがテーマ
■奉仕か癒しがテーマ
■たとえ望まない答えだとしても本当の事が知りたいと強く願っている
■他人に否定され続けてきた

こんな感じの人が多くて、
恋愛の相談で、あの人私のこと好き?みたいなことだったのに、最終結果としては自分を大事にしようとか、あなたのカルマは信じることですとかそんな感じになることが多いです

多くの占い師は聞かれたことにだけ答えます。
好き?ときかれたら、そうだね、とか、違うよとか、そういったところ+αだと思います。
質問の本質を答える人は少ないですし、それこそが私の良さだと思っています。
それをやめろと言われても、そんなのは私のやりたいことではないし、そんな占いはしたくないですし、そういったことを求めるのなら、餅は餅屋に行ってくれって感じですから、トンビにタカになれと言っても無理なのです。

また来てなんて占い師はどうなの?

私はよく、また来ます!と言っていただきますが、
来なくていいよ、と答えます。
すると相手はえ?!って顔をされますので、
またここに来るということは、あなたが何かに悩んでいるということでしょう?ここに来なくて良いようにハッピーに生きてくれたほうが私は嬉しいよ。だから良いと思ったのなら他の人を紹介してね。
と伝えています。もう来んじゃねえ!って意味では決してありませんからあしからず。そうすると、大抵の場合は、そんなこと初めていわれたと云います。

私の占いは
お金がないという人にもうお金に困ることがないように働くということはね、だから仕事をしたらいい、ハロワ行って。ということを伝えます。

ですが大抵の占い師は、お金がないという人に、
運気がいいのは何月だとか、あっちの方に行けばどうだとか、今いっとき安心できることを伝えて、不安になったらまたおいでというのです。

だから私はリピーターが少ないです。
閑古鳥がなき放題です。

でも私はそういった一時の安心のための占いをしません。そういったことをしてほしいなら私以外の占い師がいっぱいいますし、神様と約束なんぞするまでもないことです。そういったところの占いは1回目の占い師の人生のときに体験していますから。

でかいことを言ってしまえば、宇宙ってこういう法則でできているからそういう考え方だとうまく行かないんだよ、だからこう考えて、こうやって動いてみると早く抜け出せるから知っておくといいよ。
知った上でどうするかはあなたが決めたらいいよ。

そんな占いなのです。というか、これは占いなのですかね?(笑)神様との約束がありますから伝えるのは、真理とか叡智になります。

結果仏陀やイエス様が言う様なことを私なりに伝える為に、当然私自体も常に事件と向き合わなければなりませんし、そういう準備ができている人しか私のところには来ませんし、来た以上はやりますよね?ってな具合で私にも依頼者にも事件は起きます。

当然真理は切り口を変えても変わりません(バナナはどこをどう切ってもバナナでしょ?)から、医学的、心理学的、科学的、、、、多ジャンルに渡ってヒントを求め、体験して消化吸収して身になってやっと伝えられるのです。
そうでなければ辞書のようにループしたり、ニートに働けと言われるように納得行かない違和感が伝えることを邪魔します。

私は自分の体験から考え方もクリアの仕方もお伝えしていますから、あとはやってみるしかないのです。

半径✕半径✕3.14てやれば円の面積がわかります。
と私が教えたとすれば、あとは半径が2だろうが、3だろうが、自分で計算していけば面積が出せるようになるのと一緒です。

ところが殆どの占い師は、その面積は3だよ、他の円の面積が知りたかったらまたおいで、といった具合ですからいつまでも自分で解けるようにはならないのです。

だから『またおいで』と言わなければいけないということは私にとっては伝えきれなかったという敗北宣言にほかなりません。
円の面積はわかるようになったから、今度は三角形の面積はどうやるの?といったように別の問題ならまたおいでといいます。あとは、忘れちゃったからとかπじゃだめなの?とかね。
それは私がおじいちゃん聖者にしていたことと同じです。
そうしてそれこそが神様との約束であり、神の道具として伝えるということなのです

本当は....…です

魂の課題というか、カルマとも言いうけれど、人生の悩みを抱えたときに、脳みそはどうしたらいいのだろうと右往左往しますし、夜も眠れなくなったり体も不調になったりもしますが、魂といえば肉体の死が終わりではないのでやっと本番が来た!くらいの勢いで悩みすら楽しんでいたりもします。

そんなときに、私の占いに来ますと、神様との約束がありますから、時にこれを言えばいいんだけど、あの芸能人の名前なんだっけ?みたいな感じでまったく言葉が出てこなかったり、そもそも発想が消えていたりということがよくあります。

それはそのお客様の魂が、

これは自分でやりたいから邪魔しないでね!

というときです。(前記の答え)そういったとき私はそれこそが本当に正しいことだと思ってミスリードをしてしまったり、わざと真逆のことを言わされたり全く言葉が出てこなかったりします。
時に相手が私をこれ以上頼らぬよう、私が余計なことを言わぬよう私から離れていきます。その為に私はいつもと違う行動を道具として行動して相手を不快にさせます。

そうしてあなたがこの問題はこうやって解くことができるのか!と気がついたとき、当然魂はそれやってみたい!試してみたい!と感じます。

そうして前記したように、肉体の願いと魂の願いはときに真逆ですから、頭ではもう嫌だと思うような状況でも、魂が願ってしまえばそういった状況になります。
肉体の人格や性格はさておき、魂は愛が深いですから、これがやりたい!といえば、周囲の魂は『じゃあ協力するよ』となるのです。

その結果、事件が起きるに過ぎません。あなたの魂がそれを願ったからそうなったに過ぎません。もっと言えば、あなたの魂が解決方法を知りたいと願ったから、なんだか魔女みたいでおっかない見た目の私のところに来て、なんだ、意外と馬鹿じゃないかとかそんなことを思いながらそうやって解決したらいいのかと魂が知るのです。それもこれもあなたの魂が願ったからです。

ところが、この記事のタイトルのように、私は神様と約束をしています。私の魂がそうやって伝えていきたいと願ったからでもあるのです。

つまり、伝えたいと願う私の魂がいて、知りたいと願うあなたの魂がいて、そうして初めて成り立つのです。そういった意味では私のせいでもあるのです。いうなれば共犯ですかねえ?

そうして魂は純粋ですから、知った以上は試してみたい(カルマの解消したい)となりますから、これまた需要と供給が成り立って、そういう事件があなたの周りでも起きるのです。
そうして事件をクリアするまでああでもない、こうでもないと肉体の脳みそは悩むのです。

とはいえ変わる勇気が出ない人も居ます。
私が占いを始めた頃、激怒して帰っていった人が10年後に

『10年前にあなたに占ってもらった者です。あの時腹が立って怒って帰ったけれど、あなたの言ってた意味がようやくわかったからお礼が言いたくて来ました』

と缶コーヒーを持って来てくれた方も居ました。カルマって合格するまで逃げられないんです。
そういう法則なんです。

そこまで解っていても私だって罵詈雑言浴びせられるのも嫌ですし、嫌われるのも嫌ですし、ああだこうだと思うのです。だから余計に神様に全部と言わずみんなの様に一部と言って約束したら良かったと後悔しているのですが魂の願いですからしょうがないのです。そんなふうにして結局なんだかんだと言いながら神様との約束を守っていけたらと思っています。

対面鑑定
赤羽フロンティア(金曜日12時〜19時半)梅本千歌
池袋ルティナ(日曜〜水曜12時〜19時半)月咲り音
所属している館の都合で名前が違いますが同一人物です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?