足るを知るという罠

ここで書いていることをしっかりと理解すると多分恋愛とかダイエットとか実は結構汎用性が高いんですけど、少し理屈っぽく書きすぎてしまった感じがします(_ _*)反省中・・・
今回の記事は約6千文字となっています。
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足るを知るという言葉


スピリチュアル系の人たちがよく都合良く使う言葉があるのですが、その中でずっと疑問に思っていた
足るを知る
という言葉について書いていこうと思います

この足るを知るという言葉はスピリチュアル界隈では、

神様がすべてをパーフェクトに用意してくれているのだから、今これしかないのではなく、今これだけあると考えるべきで、それがもっとたくさん必要なときは神様が準備してくれるのだから、もっと!もっと!と欲しがることはやめなさい

みたいな意味で使われています。
これが私には全く納得できませんでした。
なんならまたかよ!っていらってしていました笑
(*・ε・*) 

納得できないですと言葉にすると当然ですが非難されまくるので黙っていましたけど、今ならちゃんと言葉にできる!とおもってね笑

そうして本質がわかったら、やっぱりこの言葉って聞こえを良くしただけの『我慢しなさい!よそはよそ!うちはうちなんだから!!』ってだけじゃんと。(´∀`*)ウフフ
ということで今回は足るを知るという事、欲についてを書いていこうと思います

欲について

そもそも欲ってなんぞ?ってところから理解しなくては。
ということで、欲とは悪いことですみたいに考える人が多いですがそんなことはありません。

欲とはエゴでもありますがそれがなければ生きていくこともできません。生存欲求も欲でエゴだからです。
睡眠欲、食欲、性欲、生存欲、このあたりは誰でも知っていると思いますが『欲だから悪いことです、手放しなさい!』とは言わないと思います。だって大抵の人は自分も持ってるし。

問題になるのはそれがもっと!もっと!と暴走したときです。例えば、食欲が暴走すると大抵は暴飲暴食をしてお腹を壊したり太ったりして成人病になったりとかですが、一線を越えて暴走すると例えば殺人をしてでも人肉が食べてみたいとなっていまいホラー映画のようなことが起こり得ます。実際に過去シリアルキラー(連続殺人犯)でそんな人がいて当時話題になっています。

欲はある程度のところでもっと!というのをやめないといけないのだ!というのが、我慢しなさいという意味で使う人たちの言い分です。そうしてそれは理解できるので私も反論できずにいました。理解と共感は別ですけど彼らにとっては同意義だったようでとても得意げに非難されてきました。

でも、欲の本質をみてください。
満たされないから求めるのです。
それをあなたは満たされているんだ!と周囲が言っても満たされてないからほしいと言っているのに何を言ってるのだろう?というのが私の疑問でした。

今では有名になってきた【カリギュラ効果】というのがあります。
このボタン押しちゃだめだよ、と言われた人のほうが何も言われなかった人よりもボタン押してぇ!!ってなるし、何なら押しちゃうあの現象のこと。
それと同じです。
満たされていないのに、あなたは本当は満たされているの、もっとほしいというのは良くないことなのよ、といったところでもっとほしいとなるだけなのに。

というところが私の違和感の正体でした。でもそれだけではありません。
聖書にはこうもあります。

【求めよ、さらば与えられん】

まあ、今すぐとか死ぬまでにとかは言ってないけど・・。
もし、よくわからないのに使っている彼ら、彼女らのほうが正しいのなら、なぜイエス様は数匹の魚とパンを増やす必要があったのでしょう?ただこう言えばよかったはずです

【あなた達は本当は満たされている、この1食の食事は不必要だと食べないことが最良だと神様が判断されたということだ】

でも実際は増やしまくってたった数匹と数個のパンで数千人の腹を満たしたと書いてあります。つまり食欲を満たしてあげたということです。足るを知れ!と言って切り捨てるようなことはしていません。こういったこともまた私は常にこの言葉を聞くと不愉快になる原因でした

つまりこの言葉の本質を全く理解していないのに、我慢しなさい!の代わりに聞こえが良いから使っているに過ぎません。
じゃあその本質ってなんなの?!もったいぶらずに教えろ!って思いますよね?でもそれをきちんと教えてくれるスピリチュアルリーダーとかライトワーカーはいませんでした。大抵が自称だけで本物ではなかったからです。

それでも私は求め続けました。神様が求めよ、さらば与えられん、と言っている以上、求めてたらそのうち答えをくれるかもしれないじゃない!と思ったからです。
そうして願い続けて5年以上立ったある時聖者に出会い(ダライラマのように実在している人で某国のプリンセスも会いに来るような人ですから本物の人です)教えてくれました。

欲についての聖者の言葉

★欲が満たされないとき、それは相対性の中で欲しているときです。
きちんと味わっていないときです。

★中途半端に感じると欲求不満が生まれる、完全に感じたら今までの自分が感じたことのないものが出てくると思っている。それが怖いだけだ。そう感じたらどう思われるかと気にするからだ。完全に感じた事をそのまま味わってごらん

 ★欲は持っていいんだよ、欲望は神に対して大いにもて。神は全能なのだから。ただ結果に終着するな。待てば必ず来る。今生だめなら来世に来る。常にその時の今の実力にあったものが必要なだけ与えられる

こんなふうに聖者たちは誰1人、欲を持ってはいけないとか望んではいけないとか、そんなのはだめだとかそんなことは言いませんでした。
そうしてある時すぐに否定してくる人たちのことを私は愚痴って言いました。

『でも彼ら、彼女らはスピリチュアルリーダーでライトワーカーで他の言い方もあるけれど光の活動をしていると自称していますし、そういう人たちは例外なく私を否定しますからそんなにたくさんの人が違うというのなら私のほうが違うのだと考えてしまうでしょう?』

すると聖者は言いました。
『中心から離れれば離れるほど、愛から遠ざかる。離れたところには戒律や規律がある。中心から離れるほど規律や戒律は多くなる。最近は横文字の人たちが増えてきたけれどそんなのは自分をヒーローだと思いこんでいる子供と同じだよ。かわいいもんじゃないか。法(戒律)の中で愛に生きればそのうちいつかは本物のヒーローになって今まで守って来たルールがそんなに意味がなかったと気がつくときが来るよ。』

なるほど!って思った私はさらに脱線だけど聞いちゃいました笑
『じゃあどれが本物のスピリチュアルリーダとかライトワーカーだと見破ればいいのですか?』するとこう答えてくれました

『本物はまあ、名乗らんだろうな。わざわざ名乗らなければ相手に認めさせられないくらいの力じゃ偽物か、まだまだひよっこだ。本物の前に行けば自然と魂が反応するから言葉なんていらないんだよ。俺もそうだ、黙って歩いているだけで勝手に向こう(聖者に会いに来た人)がひれ伏すよ。それが本物だ。でもね、ヒーローになりたいと背伸びをする子供を否定したりはしないだろ?それと同じで自称なんとかリーダーと言っていてもそれを馬鹿にしてはいけないよ、かわいいなって思えばいい。ヒーローだから泣かないと言ってる子供とおんなじなのだから、頑張れよって応援してあげなさい。』

これを書くために久々に思い出したけど、私頑張れよって思えてないなあ(笑)それどころか、、、、反省、、、(๑•́ ₃ •̀๑)

欲を満たすということ

例えばテレビを見ながら食事をするとテレビを見ないで食事をしたときよりも人は多くの量を食べてしまうというデータがあります。

それと同じように、
例えば大抵の人はデートをしているこの瞬間を楽しむことをせずに、この後どうしよう?とか、最近様子がおかしいのはきっと他に好きな人がいるのかしら?、、など、過去や未来や今この瞬間以外のことを気にして、今2人でいるこの瞬間を味わうことをあまりしません。

そうするともっと食べたかったと感じるように、
もっと愛してほしい、もっと私だけを見てほしい、となってしまったり、他の人はこうしてもらっているのに私はしてもらっていないと言うようなところで私もしてほしいとか、そうしてくれないのは好きじゃないからだとなったりします。

つまり、欲とは、今この瞬間、一瞬を味わうだけにしておけばそんなに暴走はしないのです。過去と比べて、昔はもっとあったとか、昔より増えたから無くしたくないとか、未来と比べて、今より持っていたいとか、今より失いたくないとか、他人と比べて、あの人よりも持っていたいとか、みんなより少ないのは嫌だとか
比べた先に欲が暴走するのです。

相対性(他と比べたところ)で欲を満たそうとすると、際限ありません。
ただ味わうとき、初めて人は満たされるところにいけます。

恋愛もそうです。

寂しさを埋めてほしい、他の人よりも私を一番愛してほしい、誰よりも幸せになりたい、そういった他と比べたところだったりギブアンドテイクの取引の恋愛だったりすると人は満たされません。なぜなら純粋に愛そのものを味わえないからです。

すると他と比べてしまいますから、別れたあの人が一番私を大事にしてくれた、別れたあの人ほど私を理解してくれる人はいなかったと過去を向けばそんなふうに勘違いをして執着してしまいます。もしあなたを一番大事にしていたら今も一緒にいるでしょうし、一番理解していたら別れていなかっただろうことには目を背けて、過去にとらわれてしまいます。

逆に未来に囚われたら、未来と比べてしまうため、もっと他に素敵な出会いがあるかもしれない、本当の運命の人(ツインソウルとかツインレイとか呼ぶ人もいるけれどその本質を聞いたらがっかりするんだろうな、今度記事にしましょう笑)は、この人じゃないのかもしれない、とかまだ出会ってもいない人と比べては、今この瞬間よりも未来にとらわれてしまいます。

その結果別れることになった未来が来たときに味わいきれなかった愛に執着するのです。なくして初めて気がついたとか言ってね。

執着すると人はそこから離れられなくなります。どうしても手に入れたくなります。そのためには手段を選ばない人もいますし、手に入らないと悲しみに暮れる人もいますが、そもそもはじめから自分のものではなかったことには気がついていません。

逃した魚は大きいというように手に入れたと思ったものをなくすと人はそれを過大評価しがちになり執着しやすくなるのです。そういった心理が働いているだけだということに気がつくことが抜け出しやすくなるのですが、こういった人に足るを知りなさいとか神の愛はということが全く無意味なのにそれをやるから私は疑問を感じていたのです。

さて、欲を満たす一番の方法は味わうことだと言いました。それは例えば、毎日毎食さつまいもしか食べてはいけないとしたら、いろんな調理法で試しても流石に飽きてしまうのと同じです。もう一生分食べた!となるように、どんな欲でも比較のないところで味わったら、おなかいっぱい!となるのは早いのです

お金がない!という人に、足るを知れと言ってもお金持ちになるわけでもないですし、欲しいものが無くなるわけでも、欲望自体が消えるわけでもありません。

そういう人に足るを知れと言うことが無駄だということも、逆効果ですらあることも彼ら彼女らは知りません。自分の口が紡ぐ言葉がどんな結果をもたらすのかに興味がありません。軽い気持ちで言葉にしたことで聞いた人がより執着を深めることを『私のカルマではない』と本気で考えていますが違います。

あなたの言葉でより執着したのならそれは執着させたあなたのカルマです。マッチで家が燃えるわけがないと思っていたと言っても罪に問われるように、知っていようがいまいが、カルマはカルマです。

ただ知っていてやるよりかは罪が軽いくらいなものですが、知らないからこそ不特定多数にやってしまいますから総合的には罪が重くなることのほうが多いでしょう。それは故意より過失の方が罪が若干軽いというだけに過ぎず、だからといって法律で裁かれないわけではないのと同じです。ですがニセスピリチュアルの世界の人たちはこういったルールを知らないため本気で自分には罪がないと考えています。それどころか良いことをしていると思っているときさえあります。だからこそ、より多くの人を惑わし、その結果、もうこれは過失とかそういう域じゃないよね?と言うようなことになります。

 日本の法律で過失で馴染み深いのは例えば、車での運転事故です。免許を持っていれば誰にでも起こりうるからです。偶然(猫が飛び出してきたとか)電柱にぶつかるなどの自損事故なども当然過失となります。わざとではないからです。でも、わざとじゃないから!と何度も何度も電柱に車をぶつけていたらどう思いますか?悪いことじゃない、だって誰も巻き込んではいないじゃない!と電柱が歪んだことで停電などが起きていることに気がついてもいませんし、反省もしていませんし、何度も繰り返して事故を起こしていても
過失だからしょうがないね!
となりますか?ならないとおもいます。

こういったことを偽スピリチュアルの人たちはやっているのですから、私はそういう人たちの言葉に違和感を感じなんかイラッとしていたのでしょう。

お金がない!という人に、足るを知れと言うよりも、働けといったほうがどれだけ建設的でしょう?

私がもしお金がないという人にも足るをしれと言わなければならないとしたら

お金に感謝してとてもとても大切なものを買うために犠牲になって財布から出ていく人くらいの気持ちで使いなさい

と言うでしょう。そうしたら本当に大切なものしか買わなくなるので節約家になります。お金に感謝して使うようになるので、減ってしまうとか未来にお金がなかったらどうしようとかそういった今この瞬間以外のことに気を取られなくなるからです。感謝の波動は良いものを連れてくるからです。とにかくいろんな理由でそうするように言うでしょう

でも彼らは違います。さも欲しがることそのものが悪いことのように、
足るを知るのが大事ですというのです。
そうして得意げに私を否定し非難し嘲笑してきたから私は反論を言葉にできずに悲しく思っていました。そうして今ここで記事にすることでその思いを消化し、ほらやっぱり私間違えてなかったじゃん!となれたのでお付き合いくださってありがとうございます。

お付き合い頂いたお礼に、最後に聖者の言葉をプレゼントします

本当の精神世界なら、人の喜びに笑顔できる。その人がモノで喜んでもいいんだ。その喜ぶ姿を喜べばいい。何もかも無くなったときに、心があるじゃないかと教えてあげればいい。それがスピリチュアルリーダーだ。

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