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鶯と湯川潮音

先日は湯川潮音さんのリリース記念ライブ、町田の簗田寺というお寺さんで行いました。お越しくださった方どうもありがとうございました!
会場の簗田寺は町田からさらにバスで20分かかり、正直会場遠いな~、なんでここにしたんだろう、とか思っていたけど(すいません)、境内に入った瞬間気持ちの良い空間と緑が広がって、しきりにさえずる鶯の声もまた異郷感を漂わせていて、特別な会にはこれ以上ないうってつけの場所でした。

潮音さんは17歳から歌い続けて今年で20周年、演奏する曲たちもその年月愛されてきたんだなとファンの方々の静かな佇まいから何かしら溢れ出る雰囲気を見て感じました。そんな、ある種の念が立ち込める中で凛として優しく力強く歌う潮音さんを見て、歌手とはどういう存在なのか、歌とは何なのか、その一つの形を見せてもらえた気がします。


以下、駄文。
本番前に、本堂の裏手の小池を囲んでちょっとした庭園が広がっているのですが、そこに生える木の上で鶯がさえずっていて、潮音さんが対抗して鳴き真似をするとさらに力強い声で返事が返ってきて、その応酬がしばらく続く場面がありました。最終的に「やっぱり敵わない」と人間側が退散していきましたが、その後もずーっと、本番の最中にも彼は美声を響かせて、それがまたとても音楽的でお客さんも演者もにやりとするような絶妙な掛け合いを生み出してくれていました。
鶯が鳴くのは、メスを誘うためと縄張りを主張するためだと聞いたことがあります。もう春も大分過ぎているのできっとあの鶯は絶賛子育て中で縄張りを声高に叫んでいたのかもしれません。そんなところに人間たちが似たような声で鳴いているのが聞こえてきて、心穏やかではなかったでしょう。「俺はここにいるぞ!でていけ!」と叫んでいたのかもしれない。いや、そんな人間が感じられるような意味ではきっとないはず。俺はここにいる、だから安心して、こっちに来て、でも近づかないで、捉えきれない思いを発していたのかもしれない。その捉えきれない「ことば」が小さな体から世界に放たれた時に、私たちにとっては音楽的とも受け取れる心地よさを持つのは何故なのだろう。鶯の鳴き声と、潮音さんの歌声は、似て非なるものだし根本的には全く違うものだけど、捉えきれない「ことば」を世界に発するというその点において、きっと同じ言語に属するものなのかもしれない。だからあんなに響き合うように鳴いていたのかもね。

自分にとって歌うことは、認めてもらいたい、褒めてもらいたいという承認欲求でもあり、同時に外の世界に身を委ねる、自分と外との境界を曖昧にすることでもあるように感じています。歌う時、または楽器を通して音を出す時、何か大きな理のようなものが世界にあって、そこに自分を合わせていくような感覚。それが上で書いた「ことば」に触れる感覚に近いのかもしれない。まぁ全てはイメージだけの妄想でしかないかもしれませんが、それも音楽をやる上では大事なこと。その感覚にもうちょっと焦点を当てていきたいなと思います。

最後に、去年まだ潮音さんとご一緒する前に川辺で歌った「風よ吹かないで」記念に載せておきます。


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