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好きなのは、テクニックで書かれていないガイド本。

初めての土地に行くからと、新宿の大きな本屋の旅行ガイドコーナーに出かけた。しかし、ガイドブックをいろいろ見たものの、どうもピンと来ず。結局買わずに帰ってきてしまった。なんだか、ほとんど全てのガイドブックがピカピカしすぎてて、自分とは縁遠いものに感じられてしまったのである。

最近、自分が頼りにしているガイド本は、岡本仁さんの『また旅』。あるいは『ぼくのコーヒー地図』。どちらも岡本さんが個人的に行って好きだった場所ばかりが登場する本である。行きつけのレストラン、好きなコーヒー屋、あとは街をどんなふうにめぐるかなどが語られる。網羅的ではない。ガイドというよりはエッセイ的である。しかし自分にとっては、一般的なガイド本に比べて格段に良い。旅の参考になる。たとえば長野県上田の旅行については「通りの雰囲気が明るくて、散歩してて気持ちがいい」みたいなことが書かれていて、「・・・本当にそうだ!」と思いながら町を歩いた。弘前のコーヒー屋に「ちょっと立ち寄る」みたいなことがあって、ぼくも真似して立ち寄った。

なにがいちばん違うのだろう? もちろんぜんぜん違うものだけれど、ギラッギラのピカッピカのガイドブックは、どうにも騒がしすぎる。根底にある思想が違う。そこでは旅行とは「イエーイ!ハッピー!!」みたいな気分で、仲良し女子で連れ立って行くものみたいなことになっている(だいぶ陽キャ設定だ)。一方で岡本さんの本は、その饒舌さがない。ただ、てくてく歩く。自分が好きな場所に行って、好きな視点で町を見ている。楽しそうではあるが、旅だからってテンションが変に高いわけではない。とはいえ「名所旧跡をめぐるおじいさんの旅行」みたいなものとは違うのだ。その場にあるものに好奇心が動いている感じがあって、どこか都会的なおしゃれさも漂う。そこまで含めて、さりげなく「編集」されている。

定番のザ・ガイドとは違う旅行の参考になるものとして、雑誌やムックなどもある。落ち着いた感じの旅行特集とか、そういうのも悪くないのだが、情報の精度ということでいうと、岡本仁さんの本はちょっと飛び抜けている。雑誌やムックの情報には「これは誌面のバランス的にピックアップされたんだな」みたいな場所も載っていて、行ったときにちょっとだけズレを感じる。岡本さんのは本当に自分が好きなところだけを、好きな見せ方で紹介している感じがあるので、まぁ、行ったときの外れが本当にない。自分と好みが違うことはあっても、訪れたときの気分がよい。過剰な編集がない。「まあまあいい」ものは、「まあまあいい」が伝わるように書いてある。これはすごいことだ。正直な情報だけで組み立てるのって、実はなかなか難しい。

まぁ、言ってしまえば岡本仁さんの本は、岡本仁さんという「個人」が本当にそこにいるのだ。自分の声で、責任を持って書いている(まあご本人としては「目の前に人がいて、おしゃべりするときって普通そうだから」くらいの感じだとも思うのだけれども)。一方で、なにか本や雑誌の形でまとめるとなると、「個人」はけっこうどこかに行きがちである。作り手はたいてい複数だし、基本、作っている個人は前に出ない。だけど「個人」が置いていかれると、仮名によるSNSアカウントみたいなもので、自分が発する言葉への覚悟や注意力みたいなものがちょっと減るのだ。そうすると情報は雑になる。

名前は出さないが、最近ある有名旅行ライターの国内旅行のガイド本を買ったところ、やっつけ感がひどくて、久しぶりに本を読みながら腹が立ってしまった。形にはなっている。「私はこういうのが大好き」みたいな言葉も書いてある。だけど、あちこちから、実はなんの思い入れがないことが伝わってくる。大袈裟な言葉とテクニックだけで本を成立させていて「読者なめんな!」と思ってしまった。そのライター氏は仮名で活動しているから、その仮名の自分が上すべりして、読者とのちゃんとした関係を築くことを放棄してしまったように感じられた。仮名は素の自分とは違うキャラクターになれるから、お酒を飲んだときのように豪快にだってなれる。だけど本の本質は作り手と読者の心のやりとりである。そこを無視したようなお酒の飲み方は、やっぱり人が離れていく(だから彼女はいちどもう仮名をやめればいいのにと、その本を読みながらほんとに思った)。

で、そういうものの対極に、「個人」として、ある意味では地味とも言われそうな岡本仁さんの本がある。小品、みたいな良さがある。あちこち便利に考えられた大型チェーン店やらフードコートとは違う、町の一軒の洋食屋みたいなものか。そこには岡本仁さんという個人がいて、メニュー数が多いわけではないけれど「好きな料理をちょっと出してます」みたいな感じ。お客は「こんにちはー」とか言いながら、お店に入ってランチでも食べていく。その人間関係とともにお店がある感じは、ほっとするし、結果的な満足度も高い。こういうお店を作ってくれていてありがたいな、と、そういうお店でごはんを食べるのが好きなぼくは思う。

実はぼくは大昔、岡本仁さん編集長時代の『relax』が大好きだったりした。理由はわからないが「こんな商業主義から離れた感じの、かっこよくて気持ちい雑誌があるんだ!」と感激し、自分が買った号の記事をなんどもなんども読み返していた。そこでの「こんな表現ができるんだ!」は、「いつか東京に行きたい」という憧れの気持ちを大きく育ててくれたと思っている。自由な場所としての東京。こういう表現を「いいよね」と言い合って、それを形にしている人たちがいるということは、地方で暮らすぼくを大いに励ましてくれた。で、高校を出たら一気に上京した。なんだかんだ表現の世界の片隅にはいて、誠実な表現というものを小さくながら追いかけ続けている。

だからいま、ずいぶん時間が流れて、旅行というかたちでこんなふうにまた岡本仁さんの仕事にあこがれ、影響を受けていることには感慨深さがある。当時、『relax』という雑誌を自分がどうしてこんなに好きなのか、理由はよくわからなかったが、いま『また旅』などの本から考えると、そこにちゃんと「個人」としての岡本仁さんがいて、読者のぼくらに普通の声で話しかけてくれていたからのように思う。「こういうの好きなんだよね」「いいよね」「この景色おもしろいよね」「よかったら見てみて」みたいな。そういうことを、既存の手法じゃなく、もっと素直な感覚で、自分が気持ちがいいように表現する。陳腐にならないように。「見開きでホンマタカシさんの海の写真が広がってたら気持ちいいし、ちょっと嬉しいじゃん!」みたいな。その、既存の手法を使わなくてもきっと喜ばれるものは作れる、というところへの信頼感があるというか。

だからたぶん、ガイド的な本についても、つくるなかで思考の二転三転、もしかしたら七転八倒はあろうが、「これは喜ばれるはずだ」の確信が岡本仁さんにはあるのだと思う。で、実際それはぼくを喜ばせている。その感じはとても憧れる。さて、ぼくにもいつか、そういう仕事ができたりするだろうか?