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初出勤

 私の母が6年前に浄土に旅立ち、これが契縁となって仏様の教えに導かれ、その教えを勉強するようになりました。縁があり、浄土真宗本願寺派の中央仏教学院通信教育学部に入学し、学習過程、専修過程を経て本年卒業できました。昨年9月、京都にて得度を行い、僧侶となり、所属寺の衆徒となりました。
 今回は、去る22日行われました所属寺で行われました報恩講に初めて出勤した感想等を書いてみたいと思います。

 浄土真宗は、お釈迦様が書かれた大変多くの経典(約4万5千ともいわれています。)の中から法然上人が選択(せんじゃく)され、その教えを引き継いでさらに解釈を加えられた親鸞聖人(1173年~1262年)が開祖となっている仏教の教えの宗派の一つであります。その教えを私が理解したとは言えませんし、到底言えないのですが、私の次のように考えています。

 私は、きわめて罪深い人間であり、また、煩悩の尽きることのない人間であります。そしていくら自分の力で努力しても絶対に悟りを開くことができない凡愚の人間であります。阿弥陀如来さま(仏さま)は、「我を信じ、すべてを任せなさい」と言われています。凡愚な私は、仏様の言われるとおりすべてをお任せするしか方法がありません。そこには私の考えなどを一切入れないことだと考えています。お任せすることによって、心の平安が得られることだと考えています

 これは私個人が考えたことであります。自分の信じていることを文章にすることは極めて難しいし、誤解を与えることも出てきます。親鸞聖人の教えについては、どうか私の解釈によらず、種々の文献、法話等でご確認ください。

 さて、得度してから1年2ケ月、衆徒(僧侶の資格を取った者)となったもののお寺の朝の読経会で3度ほど調声人(多くの人が読経するに際し、参拝者の代表として最初に発声したり、キンを打つ者)を行ったことがありますが、白衣、法衣、袈裟を着け、念珠、中啓を持って法要等の行事に参加したり、お寺の阿弥陀様が祭ってある内陣に入ることは今までありませんでした。
一ケ月ほど前に、住職から報恩講(ほうおんこう)(浄土真宗の宗祖(開祖)とされる親鸞聖人の祥月命日の前後に、阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要のこと。)に出勤(行事に参加すること)するよう言われました。さあ大変です。僧侶の資格を得るため、10日の得度研修を受け、袈裟の着付けから種々の作法、声明の研修を受けたとはいえ、作法はほとんど覚えていません。まずは法衣、袈裟の着方が問題です。特に袈裟の紐(修多羅)の結び方が難しいのです。また、お経の一部分を一人で唱えなければなりません。気の小さい私にとっては大変です。仕方なく事前に住職言って教えていただけるよう頼んでおきました。
そして当日です。コロナで種々言われているにもかかわらず参拝者は50名を超えておりました。お寺では30名以下ではないかと予想していたそうです。
午後1時から2時までの約1時間の行事ですが、緊張して昼食も食べられず、早めに着替えて出勤を待ちます。時間となり、行事を始める合図の喚鐘が鳴らされ、入堂です。入堂して着席したものの姿勢は正しくしていなければならず、またきょろきょろと周りを見ることもできません。しかし、行事は先輩僧侶の動きに合わせる必要がありますし、とても気になりますが、仕方がありません。読経が始まっても、あまり覚えていないところは口をパクパクして何とかごまかさざるを得ません。
読経は、覚えている正信偈でしたので何とかついていくことができました。言い忘れていましたが、コロナウイルスな関係で当日はマスクをしたままの読経です。
そして和讃の六首引きです。そのうちの五首目の最初の一行が私の独唱の部分です。進行して私の番がやってきました。マスクをしているからと言って声が小さくては役目を果たせません。声を大きくしますと音程が狂ってしまいます。レ音、ミ音と続き私のところはラ音で、少し高い音階です。でも何とか発声ができ、無事私の役目は終わりました。その後若干、読経は続きましたが、無事行事は終わりました。この年になって、こんなにも緊張することは初めてです。

終わりまして、控室に帰ってようやく一息できた時は本当にほっとしました。
この出勤で、阿弥陀様、親鸞聖人のご恩に対し、少しでも感謝できたことを心から喜ばしていただきました。
人生初のお寺での出勤の思いを書き記してみました。
     南無阿弥陀仏

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