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言葉を狩らずに向き合えるか

(バカ公園・夢)

私はかつて、言葉を狩ることを生業としていました。
確かな誇りを持って、仕事に取り組んでいたと思います。
常に正しくありたい、世界もそうあるべきだと願う私にとって、
この仕事は天職だとさえ思っていました。

本来の意味が抜け落ちた状態で使われ続けている言葉は
果たして狩の対象となるべきなのでしょうか。
答えは今の私にはわかりません。
当時の私であれば、真っ先に狩の対象としていたと思いますが。

仕事だと割り切っていても、
狩の後に残る虚しさには慣れることができませんでした。

なぜなら言葉が狩られても、
狩った我々以外には、狩られた言葉を認知することができないのですから。
これには言葉狩りのプロセスに要因があります。

我々が行っていた言葉狩りは、次のようなプロセスを経て実行されます。

1、その言葉が発生した年代、場所を特定する。
2、その言葉を最初に発した、もしくは記した人物を特定する。
3、どのような手段を使ってでも、その人物から言葉が発生しないよう阻止する。

なお、上記全ては、過去に発生した言葉を根本から狩るための方法であり、
時を渡る必要があります。
1を行ったのち、さらに詳細を調べるために2の段階で時を渡る場合もあれば、
言葉の起源がはっきりとしている場合は、3の段階で時を渡ることもあります。


私の中にだけ、この世界に存在しない言葉が残り続けている。
言葉狩りとはそういう仕事でした。

大きな転機が訪れたのは、
先輩の佐伯さんと、「あの言葉」を狩る任についたときです。

いつものように調査特定をして、対象を狩るために時を渡りました。
しかし、「あの言葉」は狩っても狩っても、
時が経つとどこからともなく発生しました。
何度も時を渡り、ここでは書けないような手段を使ってでも、
根本から発生を阻止しました。
それでも、「あの言葉」を根絶やしにすることができませんでした。

佐伯さんは次第に心を病んでいきました。
上司から詰められ、自身の能力不足だと思い悩み、
自己否定の沼に沈んでいきました。

私にとっては、佐伯さんはこれまで出会ったどの先輩よりも有能な人でした。
佐伯さんの能力不足などではなく、
対象とした「あの言葉」の力があまりにも強力だったのだと思います。

ひと月ほど後、佐伯さんは仕事に来なくなりました。
放置された佐伯さんのデスクの傍に落ちていたメモ用紙に

「べつにあってもいいんじゃないか」

と書かれていたのを、今でもはっきりと思い出すことができます。

「べつにあってもいいんじゃないか」
確かにそうかもしれません。どんな言葉も、あってもいいんじゃないか。

私の中でなにかが変わりました。
言葉を狩るのは、もうやめよう。

変えなければいけないのは言葉ではなく、
言葉を使う人間であるのだと私は気づきました。
佐伯さんを追い詰めたのは「あの言葉」ではなく、人間である上司でした。

まずは私から変わらなければいけません。
私は、「あの言葉」と向き合おうと思いました。
あってもいいんじゃないか。を自分の本心として噛み締めるために。

「あの言葉」は、
こうして文章に書き記すことも躊躇してしまうほど
私にとっては忌むべき言葉ではありますが、
ここに書き記しておこうとおもいます。

目にする方にとっては耐えがたく、
心が締め付けられるような言葉であるかもしれません。

それでも、その言葉を知りたい、感じたいという方は
画面をスクロールしていただければと思います。





















エケチェン
赤ちゃんのこと。半角カナで表記される場合もある。






やっぱり無理かもしれません!!!!!!!!!!!!!!

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