みんな同じでみんな良くない

「みんな違ってみんな良い」なんていうのは価値観の違いが露骨に表出するようになった現代社会の生み出した戯言で、実際にはみんな大して違わないと思っている。

違うのは悪意の向ける矛先であったり、誤魔化し方だけで、根本的な悪意の性質は大して変わらない。
そして、その違いの源泉は、遺伝などの先天的な要素よりも、生まれ育った土地やこれまでに出会った人々などの後天的な要素にあるのではないか、というのが私の意見だ。

つまり、結局は「みんな同じでみんな良くない」のである。

では、上記の根本的な悪意の性質とは何だろうか。

悪意にはニ面性があると考えている。一つは自己肯定感の低さからくる自分自身への悪意である。過去の自分の選択を悔やんだり、境遇を恨んで自傷的になったり、こうして私たちは自分自身への悪意を募らせていく。過去を取り戻せたら話は別なのだが。

もう一つは他人への悪意である。こちらは単に他人を誹謗中傷したり、他人の尊厳を貶めたりする行為が挙げられる。

しかし、大抵の人間はこの2つの悪意をごちゃまぜにしてしまう。
自分の犯した罪を他人になすりつけたり、恵まれていない自分を誇大視して他人より優位に立とうとしたり、挙げ句の果てに自暴自棄になって他人を攻撃したり、私たちは日常的に無自覚的に2つの悪意を混同している。争いが絶えず起きるのはそのせいである。

私にとっての「正しく生きる」とは2つの悪意を完全に切り離すことで達成される。そうすることで自他の境界が明確となり、ようやく自他の調和がとれると考える。ここにはある種の中道的な思念が含まれる。
但し、中道の根幹である不苦不楽を全面的に肯定しているわけではなく、「正しく生きる」ことには必ずといっていいほど苦しみを伴う。

なぜなら、2つの悪意を切り離す過程で自他が永遠に分かり合えないことを受け入れていく必要があり、他人より劣っている自分を認めなくてはならないからだ。私のような人間の経験する、青年期特有の閉塞感というのはこの苦行からくるものだと考える。

ここまで根本的な悪意の性質について述べたが、根本的な悪意の性質があれば、逆に根本的な善意の性質の性質もあるのではないだろうか。

善意は悪意と違い一義的であり、全てが他に対しての働きかけの中で生じる。要するに「席を譲る」行為に他ならない。

そして、この「席を譲る行為」にも「正しく生きる」ための術が詰まっていると考える。

席を譲るという行為は簡単に見えて実は難しい。
まず、自分の座っている席付近の他人を認知し、次にその他人が席に座ることを必要としていることを理解し、席を譲っても、極度の不利益を被らないことを予想した上でようやく席を譲ることができる。

さらに言えば、自分の座っていた席が席を必要とする他人にとっても座り心地の良いものであるか、というのは重要な論点になる。これを見落とせば、全てが偽善でしかなくなり、すなわち自分自信への働きかけであり、ここで述べた真の善意とはかけ離れてしまう。

「席を譲る」ことも「悪意を切り離すこと」と同様に苦しみや痛みを伴う。席を譲って立つ自分は、譲った席に座る他人に対して屈辱を抱えながら生きていかなくてはならない。
やがて、電車のドアが開いた瞬間、我先にと一目散で席を目指そうとする東京のサラリーマンが誕生してしまう。

では、私は正しく生きることを忘れた人間に対して、正しく生きることを強要するべきなのだろうか。

それとも、正しく生きることを忘れた人間に踏みつけられるための屍として、正しく生きていかなければならないのだろうか。

正しく生きようとすればするほど思考は空回りしていく。どこに歯止めを設けるのか。それとも自分にとっての「正しさ」という凝り固まった概念を捨て、ひたすらに死を待つのか。

これまでをまとめると、死にたい。

が、生きてみたくもある。

全ての戦いを見終えてから死んでも遅くはない。

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