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1998年5月12日

今日は5月12日、ジャカルタの暴動から丸26年経ちました。

私がインドネシアに初めて来た1997年10月より前から、日本では山一證券や北海道拓殖銀行の経営危機が取り沙汰されており、銀行がバブル経済時に融資した企業の事業の失敗により資金回収ができないだけでなく、担保である不動産価格も下落するという不良債権回収の問題で、連鎖的な銀行の破綻と銀行同士の吸収合併などが噂されている時期でした。

ジョージソロスを中心としたヘッジファンドによる通貨の空売り(ノーポジで売り契約を入れること)攻勢により、世界的に見て外貨取引量の少ない東南アジアの通貨が連鎖して下落しました。

具体的にはヘッジファンドは、当時のルピア価値が割高だと評価し、将来下落することを見込んで、手元に持っていないルピアを借りて売り、後から買い戻す際に、予想通り価格が下がっていれば利益を得ることができたわけです。

1997年7月のタイ通貨危機に連鎖してインドネシアルピアも対ドルレートは下がり続けた結果、海外からドル建てで借金していたインドネシア国内企業の金利と元本の返済が滞るようになったことで、インドネシア通貨危機(krisis moneter 略してクリスモン)に突入しました。

米(Beras)、砂糖(Gula pasir)、油とバター(Minyak goreng dan mentega)、牛肉・鶏肉(Daging sapi dan ayam)、卵(Telur ayam)、牛乳(Susu)、とうもろこし(Jagung)、灯油(Minyak tanah)、塩(Garam beryodium)、これら9つの生活必需品Sembako(Sembilan Bahan Pokok)の値上がりに一般庶民の不満が募り、燃料(BBM Bahan Bakar Minyak)価格が急騰し、タクシーに乗るたびに初乗り料金が値上がりしているんじゃないかと錯覚するほどでした。

32年間続いていたスハルト政権では、KKN(Korupsi汚職・Kolusi談合・Nepotisme縁故主義)が蔓延し、スハルトファミリーだけが私腹を増やしているというような、独裁国家ではご法度だった為政者への批判が公然と聞かれるようになり、連日学生を中心としたデモが国民協議会MPR(Majelis Permusyawaratan Rakyat)前に集結し、政治の不安定と経済混乱からのReformasi(レフォルマシ 改革)を訴える行動がヒートアップしていく中で、『特定の勢力』によって扇動された疑いもある、あの暴動が引き起こされました。

当時スミットマスビルのスディルマン通り側が封鎖されてしまったので、裏のSenopati通りに出て車に乗るも、前方のMampang交差点に群集が見えただならぬ気配だったので即Uターン、大型スーパーGOROから略奪したばかりの戦利品をカートで運ぶ餓鬼の群れを尻目に、ところどころに集結している群集を避けながら徘徊すること4時間あまり、平和的に行進する学生のデモにまぎれてスディルマン通りを北上し、装甲車が行き交う戦場映画さながらの状況の中で無事Kuninganの自宅に戻りました。

その後数日間は政府による外出禁止令が出され、解除されるとすぐにオジェック(バイクタクシー)をチャーターし、最も被害が大きいとされたコタ地区に向かい、ガジャマダ通りからグロドック周辺の写真を撮って回りましたが、大通り沿いの建物のガラスは投石でことごとく割られ、中華系銀行として標的となったBCA銀行のATMは破壊され、川にバスが突落とされていました。

そしてそのとき撮影していたカメラは、2週間前にグロドックのカメラ屋で買ったばかりのものでしたが、そのグロドックは建物自体が既に焼き討ちで見るも無残な状態でした。

あの暴動から26年も経ち、今年2月に行われた大統領選挙では、インドネシアの若者層は、候補者が暴動を扇動した『特定の勢力』とも疑われていることは問わないという審判を下したともいえるわけですが、当時の記憶が残る人間にとっては、10月に就任する新大統領を複雑な気持ちで見守ることになります。