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僕はなぜ麻雀を選んだのか【雑記】

ぼんやりとしているけれども面白い記事を読んだ。タイトルと書きだしが優勝している。

ゲーム投資という言葉は初めて耳にしたけれどおそらく時間投資に似た類の何かのことだ。「人生は有限でゲームは無限なのに、わざわざ麻雀を選ぶのはなんで?」という素朴な問いから至極真面目に論を展開している。堅苦しい程に真面目に書いているのだが、まあまとめると「ルールはそうも変わらないし年取っても遊べるからアドだよ」という話だ。以下に記事終盤の名調子を抜粋した。これを面白いと思った方は是非原典もご一読戴きたい。

麻雀はおじさんであることを否定しないので、麻雀には多くおじさんが存在します。麻雀はおじさんのゲームです。

さて、殊ゲームにおいて僕たちには無限の選択肢が提示されている。終戦直後の復興期でもあるまいし、ガチャガチャ積み木を掻き回すよりも有益な余興はいくらでも用意されている。それでも未だ僕が麻雀を続けているのはある意味で「時間投資の元を取りにいっている」からかもしれない。

初めて麻雀牌に触れたのは10歳、実に小学4年生の時の事だ。そして、とある麻雀漫画のワンシーンが当時の僕の心を惹きつけそして麻雀観を決定付けることとなった。

神田たけ志先生の名著『伝説の雀鬼ショーイチ』1巻冒頭である。とにかく痺れた。若干10歳のハッケヨイ少年は完全にその虜となった。AKIRAなんか目じゃなかった(これも父の書斎にあった)のである。「脈々と受け継がれている伝統賭博の一端に触れる」ような力強さを麻雀から感じ、そして憧れた。ちなみにkindle版はなんと一冊22円で購入できる。必読である。

手積みの家庭麻雀で習い、井出先生の『東大式強くなる麻雀』で符計算を覚えた。田舎の書店にはそれっきりしか麻雀の書籍がなかったのだから仕方ない。ジジババ母と僕、父は参加せずにたまに口を挟むのみだった。ノーレートのドンジャラもどきの中にも、僕はその多感さで以てたっぷりと「賭博の匂い」を吸い込んでいた。そしてそれはまた、父の匂いでもあった。

僕の父は愛知県の西尾という所で生まれ育った。人口は父が20代の頃で15万人。内海に面して小さな漁港があり、名産は抹茶。ざっくり言うと鄙びた田舎町である。

こんなのどかな町に生まれてどう間違ったかガチガチの文学青年として育った父は、大学卒業後の20代を地元で世捨て人として過ごした。豊橋の真剣道場(賭け将棋をメインとする将棋道場)で師範代をする傍ら、一色の漁港で漁師と麻雀をして得た日銭で暮らしていたらしい。時は1970年代後半、ほぼほぼ『むこうぶち+ハチワンダイバー』の世界だ。父はその頃の面白おかしい暮らしを何度もハッケヨイ少年に語って聞かせた。夜中にふらっと訪れて朝まで勝ち続けて帰る元奨の話。漁船をカタに取ったが漁師仲間に囲まれて泣く泣く捨て値で譲った話。少年はバチクソ痺れた。手元の石ころの向こう側には、明朗でイカれた退廃的な世界が広大に広がっているのだ。兎に角熱心に僕は覚えた。

*将棋は全く物にならなかった。幼児期に将棋大観でひたすら稽古をつけられて心が折れた。父はとても残念そうだった。

この後直ぐに更なる麻雀ブームが訪れる。小学6年生の時だ。哲也が爆裂に流行ったのである。

学校中の、果ては他校のやんちゃなガキ共は皆して麻雀に夢中になった。放課後にはよくメンツ集めの声が掛かった。当然出向いて打つ。共働きの多い地域だったから夕方の家には誰もいない。目をかっぴらいて「牌が…透けて見えるんだよ」と印南の物真似をするとひたすらウケた。こうして勢いそのままに中学に突入して三年に上がると共にフリーデビュー、高校は朝から晩まで部室に籠もりきりで順調に麻雀の道を歩む事となる。ここまでが僕のごく個人的な「なぜ麻雀を始めたのか」である。

僕が言いたいのはこうだ。人が麻雀を選ぶ理由は結局のところ「これからも続くから」ではなく「今まで続いてきたから」なのではないだろうか。麻雀の持つ壮大なナラティブの厚みたるや、他のゲームの追随を許さない。麻雀をするということはつまり「麻雀をすることで紡がれてきた名も無き物語の一端に触れ、そしてその一部となる」ことに等しい。言い換えればこうだ。「麻雀はゲームではなく文化であるから」僕は麻雀を選んだ。

だから、選択してしまった僕たちには「ゲームとしての麻雀」を存続させるゆるやかな責務がある。今まで続いてきたという事実は、当然これからも続く事を担保しない。レジャーの多様化の影響たるや夥しく、同じく新伝統賭博であるぱちんこを滅ぼしてしまうかもしれないほどの勢いがある。そして今、麻雀はオンラインという新たなプラットフォームを得てハード面で生き残りの道を探っている。では、紡がれてきた物語はどうか?伝統小博奕としての麻雀はどうなるのか?

四方山話が長くなった。ただ僕は、ある意味で父の愛した世界を守るためにソフト面で麻雀をリワークしていく事に執心しているだけだ。アタマだろうが少牌だろうが銀河だろうが136枚の石ころはその全てを受け入れてくれるだろう。なぜなら麻雀は文化だから


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