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Laughing Note〜お笑い手帖回顧録 寄り道②

前回からの続き
 タイタン設立当初、事務所は爆笑問題の、2人、太田夫人の光代さんに、スタッフの学生時代の友人ら数名で運営していた。その周りには、爆笑問題出版社のKさん、テレビ局員Iさんらがいて、彼らもまたそれぞれに爆笑の再起を願い応援していた。
一緒に何かやろうよ、と宣言した自分ができる事は何か?
彼らにラジオ番組を持たせる事が先決だと、企画書を出し続ける日々が過ぎていくばかりだった中、
僕は月〜金帯の生ラジオ
恋する電リクビンゴボンゴという番組を、後輩アナウンサーの小林豊君と担当することになる。
番組中で一つ好きなコーナーやっていい、と永田プロデューサー
(永田Pは、大映のドン永田雅一氏の孫にあたる人。伊集院光氏をTBSラジオに引っ張って来た敏腕で陽気な方)
から許しを得たので、
リスナーが送ってきたネタを、芸人が生で演じる企画を考え、そこに隔週で爆笑問題とフォークダンスDE成子坂を起用することにした。とりあえず、最初の一歩。コーナーは好評で、リスナーの中からプロになった人を輩出もしたが、その番組自体は2年程で終わり、また爆笑問題が出るところはなくなった。
その直後、ラジオ編成から
「日曜の午後 1時間だけ枠が空くので番組やりませんか?」との打診。
後からわかったのだが、僕が出る番組という意味だったらしいが、とにかく爆笑問題を何とか残さなきゃ、という気持ちでいっぱいだった僕は、自分は裏方に周りプロデューサーとして
『爆笑フォルテシモ」という番組を立ち上げた。構成作家を決める際に、爆笑問題にどんな人がいいか、希望を聞くと、以前タモリ倶楽部に、出た時に関わってくれた高橋洋二という方がいいというので、すぐにコンタクトを取ると、是非!と即答。高橋さんはそれ以来ずっと爆笑問題のブレーンである。
さて、いよいよ1時間の生の冠番組のスタートだ。
ただプロ野球ナイターのシーズンだけの半年間 期間限定の条件付きだったが、それでも彼らの力を各所に知らしめたかった。
で、半年後それも終わり、何とか土曜のド深夜録音枠の20分だけ、彼らの番組を残してもらい、細々と続けながら、次の機会を待った。
当時の制作部長は、「太田だけならなー」と言う。わかってない。田中君の存在がなければ、それは爆笑問題では無い。のちに立川談志師匠に田中を切るなよ と言われた話は有名だが、
やはり分かる人にはわかるのだ。
 そんな事で、なかなか事態が好転しない中も、企画書を出し続けた、
そして、風が吹いた。
ボキャブラ天国で人気が出だして、更に日本言論と言う本が、ベストセラーになった!
会社の上層部というのは、どうも活字の力に弱い。本が売れてるとなると、やっと話を聞く気になる。
マイナーなものがメジャーになるにはこうした頭の硬い人達を説得しなければならない。
太田だけならなーと言っていた部長も、イケると思ったのか、ついに深夜のゴールデンタイム1時〜3時の枠に爆笑問題の番組を立ち上げることになった!
これが今でも続く
『火曜UPs爆笑問題カーボーイ』(現在は火曜JUNK)
タイトルは映画好きの太田君が
『真夜中のカーボーイ』から発案。
池袋の居酒屋での打ち上げで再開して3年は経っていただろうか。
ようやく太田君が好きに喋る場所を提供することができた。
 僕のできる事はここまで。
あとはもういろんな人が彼らの周りに集まって来るだろう。僕は芸能界という山の入り口まで案内するような役目。ここまで来れば、あとは自分達の力で登って行けると信じていた。
番組のプロデューサーはラジオ専任のスタッフに任せて、少し離れた所から彼らを見る立場になった。
ここまで来るまでの間、一緒に食事に行ったり、タイタンのスタッフ 所属芸人のキリングセンス ジバらとの社員旅行に誘ってもらい、日光や油壺やディズニーランドにも同行していた、光代さんは、
「浦口さん、もっと売れたら、みんなでラスベガスに行きましょまうね!」と言っていたが未だ果たせず。もはや彼らにそんな暇は無い。売れす過ぎだよ!笑
 発言権を持ちたいと言っていた太田君。選挙特番であろうが、バラエティーであろうが、言いたいことを言う、聞きたいことを聞く。それが彼の魅力。
いつか、太田君と二階さんの漫才観たいなぁ。「顔が怖いですよね」「失礼な事言うな!」なんてやりとり もう漫才じゃ無いか。

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