kainatsu & オガワマユ <呼ぶ歌>
私の「note」の表紙には「クラシックを中心に全ジャンルの音楽、レコード、CD、映像メディア、コンサートやライブについてのトピック、そして「食」「旅」「メディア」などについても発信してまいります。 」と書いてある。
以前、アイドル・ポップスのシリーズ『80年代終盤から90年代初頭の女性アイドル・ポップスの完成度』を書き始めた際、それまでクラシック音楽の古い音盤のことしか綴っていないことを自白し、「有言不実行甚だしい」と自分を律したつもりでいた。
しかし、よく考えれば表紙に書かれた「コンサートやライブ」については、150本ほど書き溜めた記事で、中心的に扱ったことは一度もない。
これまた有言不実行甚だしい。改めなければいけない。
もちろん、コロナ渦でリアルなコンサートやライブを見る機会は以前と比べて減ったは減った。
しかし、比較的開催が容易なクラシックのコンサートや落語(寄席)には足を延ばしているではないか・・・。
さて、そんな中、10月10日に行きたいと思っていたライブが東京であって、お誘いも受けていた。
しかし、別件でそこへ伺うことはできなかった。それを不憫に思っていただいたのか、出演者の一人がその時の配信映像のURLをすぐに教えてくれた。ありがたやありがたや・・・。
本日は終日大阪出張で、先ほど帰宅したばかりだが、往復の新幹線の中でその配信映像すべてに目を通し、しっかりとその音を心に焼き付けた。
10月10日(日)南青山マンダラで行われたそのライブは、「kainatsu & オガワマユ <呼ぶ歌>」とタイトルされていた。
共にピアノを弾くシンガーソングライターのkainatsuとオガワマユ(敬称略)の2マンライブだ。
二人についてはこちらを参照していただきたい。
http://kainatsu.jp/
https://mayulala.com/
二人と面識がある。
というか、二人は私の音楽的生活に必要不可欠な大切なアーティストである。
普段私は、kainatsuのことを「なっちゃん」と呼び、オガワマユのことを「マユさん」と呼ぶ。
二人は同世代だが、一人は「ちゃん」で、もう一人は「さん」だ。
何故その違いが生じるかと言えば、kainatsuと出会ったのは今から16年前、彼女がまだ大学生だった時で、オガワマユと出会ったのは3年半前だから。出会った時の年齢で「ちゃん付け/さん付け」に変わる、というわけ。
二人はピアノを弾きながら(もちろん、ソロ弾き語りだけでなく、バンド編成でのライブもやる)、自作曲を歌うアーティストだが、その質感や世界観はだいぶ異なる。
それがどう異なるか?あるいは彼女たちの音楽性やキャラクターが私にとってどんな印象を与えるのかについては、以前あるブログにそれぞれ綴ったことがある。かなり緻密に・・・。
現在そのブログは故あって閉鎖されているが、今、それを再度語ることが今回のこの記事の主旨ではないので、先を急ぐ。
これから綴ることは、この「note」を「有言実行」のものとするためのライブレポート(しかし、リモート)なのだから。
しかし、ひとつだけ予備知識としてお知らせしておきたい。
元々二人がそれぞれのライブを初めて観たのは、2019年3月に行われた女性ピアノ弾き語りシンガーソングライター6名が、同じグランドピアノを弾きながら歌う、というショーケース・ライブに出演した時だった。
そこで二人は初対面し、お互いのステージを観て聴いて、それぞれをリスペクトすることになった。
この企画は翌20年にも行われ、二人は再び同じステージで同じピアノを弾いて、それぞれパフォーマンスを行った。
これは偶然ではなく、意図された結果だが、1回目のトリはkainatsuで、2回目のそれはオガワマユだった。
そのライブ・シリーズは『HELLO FROM THE PIANO TOWN~ピアノのまちからこんにちは』と名付けられていた。
さて、10月10日の南青山マンダラでの「kainatsu & オガワマユ <呼ぶ歌>」。
オープニング、二人は揃ってステージに登場し、このライブがどういうきっかけで行われることになったか、二人が知り合って、これまで何度か実現できそうな機会がないわけではなかったが、コロナ渦のこともあり、結果的に今回やっと実現できたこと、などが語られ、第一部オガワマユのライブがスタートした。
私自身、ライブハウス、配信に拘わらず、彼女のライブを観るのは先程触れた2回目の『HELLO FROM~』以来、20か月ぶりだった。
オガワマユはこの間に女の子を出産し、母親となった。
よく女性アーティストが母となると、歌の雰囲気や歌い方が柔らかくなる、と言われる。私自身、そう実感することも多いし、本人自身がそう自覚していることも多い。
私の経験上、その典型は矢井田瞳、ヤイコだ。
彼女が母親となった後、私が初めて観たライブ終演後、彼女の楽屋を訪ねその旨を話したら、彼女は「やっぱり、そうですかね・・・」と口にした。
ヤイコの例を出すまでもなく、今回のライブのもう一人の主役、kainatsuが母親となった時もそれを感じた。「柔らかくなった」というより「逞しくなった」という感じか?
しかし、少なくとも私の感覚ではオガワマユの歌、声にその変化を感じ取ることができなかった。彼女の歌は全く変わっていなかった。
元々彼女の歌にはその豊かな声量がもたらす「うねり」のようなものがあり、聴く者はそこに飲み込まれるような錯覚を覚える。しかし、その飲み込まれ方に怖さを感じない。むしろ安心感を覚える。
私はその感覚と彼女の作る歌の色彩感も含めて、彼女のことを「マジカル・オガワマユ」と呼んでいる。彼女からすれば全然マジカルではないかもしれないが・・・。
かなり振れ幅のある彼女のレパートリーの中でも、この日はどちらかと言えばじっくりと、ひたひたと人を飲み込んでいくようなタイプ、つまりどちらかと言えばミディアム・スローな楽曲が多かった。
途中、ウクレレを手にしたkainatsuが呼ばれ、オガワマユの曲をセッションした。
曲は『彼女の葬列』という少し変わったタイトルの歌。
実はこの時、セッティング・トラブルでkainatsuのウクレレの音が生きておらず、その編成の面白さは発揮されなかった。
それもあって、アンコールの中でリベンジされ、今度はマンドリンの音も曲のアクセントとなっていたが、私にはむしろ上手くいかなかった本編での『彼女の葬列』の印象がとてつもなく鮮やかで、同時に戦慄的であった。
一言で言えば、「kainatsuの歌が、オガワマユに惹きつけられ、オガワマユ化していた」という出来事が起こっているように思えた。これまで聴くことがなかったkainastuの"the another world"。
アンコールでは既にその"the another world"が"the another world"ではなくなっていたので、戦慄はなかった。
これは蛇足だが『彼女の葬列』を聴くと、いつも頭に浮かぶ風景がある。
20数年ほど前に、私はよくバリ島を旅していたが、バリの原風景が残るウブドの街を歩いていると、よく葬列に出くわした。
バリ・ヒンドゥーでは、葬儀は「その人を送る最後の幸せの儀式」だとされているので、とても賑やかでカラフルな葬列だ。
バリの青い空と極彩色の葬列のコントラスト・・・。
逆にkainatsuのステージでは、オガワマユが登場し、kainastuの作品をセッションしたが、オガワマユがkanatsu化することはなかった。
だからと言って、オガワマユが凄くてkainatsuが凄くない、などという気は全くない。
二人のアーティストの凄み、アイデンティティを、同じメジャーで比較することは全くのナンセンスだ。
ただ敢えて言えば、この日のkainatsuのセットリストは未録音の新曲も含め、新し目の曲が多かったので、オガワマユはkanatsu化しなかったのかも・・・と今考えると思ったりもする。
私はkainatsuが15年前にメジャーデビューした時のシングル『下北沢南口』のc/w『hello』が大好きだが、もし、この曲を二人で歌っていたら、とんでもないケミストリーが起こっていたかも、とふと思ったりもした。
出会いから2年半以上経過してやっと実現したkainastuとオガワマユの2マンライブ。
今度は是非彼女たちが出会った静岡で実現出来たら、そして、今度こそその場に居合わすことができれば、と思う、そんなライブだった。
kainatsuが2019年のイベント(この時のトップバッターはオガワマユだった)で、オガワマユの1曲目『music.』を聴いて、その魅力に引き込まれたというが、確かにあの時の『music.』は凄かった。
あの曲で『HELLO FROM THE PIANO TOWN~ピアノのまちからこんにちは』が幕開けしたことは、このイベントを象徴する出来事だったのかもしれない。
今回、ライブの最後はその『music.』を二人で連弾し歌ったが、静岡開催の暁には二人で是非連弾して弾いて欲しい曲がある。
先ほど挙げたkainatsuの『hello』と、オガワマユのまさにマジカルが炸裂する『定点観測』。
よろしくお願いいたします。
宣伝のつもりはないが、『HELLO FROM THE PIANO TOWN~ピアノのまちからこんにちは』は1回目がドキュメント&ライブ、2回目がライブ中心に編集されDVD化されており、イ―コマースのみで購入できる。
ご興味があれば是非。
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