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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #71~シモン・ゴールドベルク ハイドン『ヴァイオリン協奏曲 ハ長調』(1947)

昨日6月1日はヴァイオリニスト、後に指揮者としても活躍したシモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg, 1909年6月1日 - 1993年7月19日)の誕生日であった。

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仕事が忙しかったので、「note」も【ターンテーブル動画】もアップすることができなかった。一日遅れになってしまったが、この幾多の苦難に見舞われながらも、音楽の道をまっすぐに進んだ音楽家について、少しだけ・・・。

ユダヤ人、そして捕虜として

シモン(ジモン)・ゴールドベルクは当時はロシア領であったポーランド・ヴウォツワヴェクで生まれたユダヤ系ポーランド人。
少年時代はワルシャワで学び、1917年にドイツ・ヴァイオリン楽派の名教師、カール・フレッシュの弟子となった。すぐにその神童ぶりはヨーロッパ全土に伝わり、僅か16歳でドレスデン・フィルハーモニーのコンサートマスターの座を射止めた。
そして、1929年、20歳の時、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに乞われベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターとなった。
一方で、作曲家でもあったヴィオラとパウル・ヒンデミット、チェロのエマヌエル・フォイアーマンと弦楽トリオを組んだり、ピアノのリリー・クラウスとのデュエットの活動も並行して行った。

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しかし、1933年にナチスが政権を獲得すると、ユダヤ人であったゴールドベルクの立場は危うくなり、史上最悪の法律のひとつ「職業官吏再建法」により、ベルリン・フィルを去らなくてはいけなくなった。
1934年ベルリン・フィルを退団、アメリカへ渡りソリストとしてデビュー。
そして、1942年、アジア楽旅の途中、インドネシア・ジャワ島でリリー・クラウスらと共に日本軍の捕虜となり、終戦までの約2年半、抑留生活を強いられた。

戦後、アメリカ国籍を取得し、1951年から15年間に渡り、コロラド州のアスペン音楽学校で教える傍ら、指揮活動も開始、1955年にアムステルダムにてネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)を結成し、コンサートやレコーディング活動を行った。

そして、1990年に新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任。
晩年、夏になると1988年に再婚したピアニストの山根美代子と共に、立山国際ホテルに長期滞在することが多くなり、1993年7月19日、この地で逝去した。

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人生と音楽~人間の尊厳のために~

「波乱万丈」という言葉で簡単に片付けられない人生であった。
ナチスからはユダヤ人として、日本軍からは捕虜として苦汁をなめさせられたゴールドベルク。しかし、一貫して彼の奏でるヴァイオリンにその苦労や苦難、悲惨さを感じることはほぼない。とてもポジティヴなメッセージを含んだ演奏、音色のように感じる。
よく思うのだが、音楽家にもやはり二つのタイプがあって、その人生が色濃く影を落とすような「人生=音楽」というタイプ、逆にその人の境遇が悲惨を極めるものであっても、それとは隔絶したような、まさに「音を楽しむ」ように音楽を届けるタイプ。前者の代表は恐らくベートーヴェン、後者の代表は作曲家で言えばモーツァルトだが、20世紀、イデオロギーによって芸術家が翻弄された様々な出来事を思い浮かべると、指揮者ブルーノ・ヴァルター(ワルター)、そしてこのシモン・ゴールドベルクの名を挙げずにはいられない。全人類愛的価値観性善説による人生観とそこから発せられるメッセージとしての音楽。

日本軍捕虜としての2年半抑留されたことと、山根美代子と結婚したことを捉えて「私は日本人に2回捕まった」とユーモアを交えて語るゴールドベルク。抑留中ヴァイオリンを弾き、捕虜たちに慰めと生きる希望をもたらしたというその人格。
ユダヤ人、捕虜という逆境の中でも人間の尊厳とは何たるかを自ら示したゴールドベルク・・・。

【ターンテーブル動画】

今回は、そんなゴールドベルクの人生の中で、温かい日差しが再び注がれるようになった1947年録音の78rpmをクレデンザ蓄音機で。

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この音源は1948年にLPが発明され、発売されると、ほどなくLP(C/Wはバッハのコンチェルト)でもリリースされたが、オリジナルはこの78rpm3枚組。
以前はモーツァルトのそれの陰に隠れて見向きもされなかったが、最近のハイドン・ルネッサンスで録音も増えているヴァイオン協奏曲の中から、ハ長調を。
ワルター・ジュスキントが指揮するフィルハーモニア管弦楽団との共演で。


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